ガラガラポン日記

複雑になってしまった問題を、一度ゼロにして、考え直してみる。

読書メモ『輪廻転生』

図書館で『輪廻転生〜〈私〉をつなぐ生まれ変わりの物語』(竹倉史人  講談社現代新書2015年)という本を借りてきた。これは、今読んでいる『仏教思想のゼロポイント』(魚川裕司 新潮社 2015年)の中で「輪廻」について書かれていたので、それをネットで調べる中で「輪廻転生」という言葉が出てきた。そのとき、たまたま図書館でこのタイトルが目に入り借りてきたのだ。

 

著者の「竹倉史人」さんは、1976年生まれだから、今年41歳。「魚川裕司」さんは、1979年生まれだから、今年38歳。これからの活躍が楽しみだ。

 

さて、『輪廻転生』に戻ります。

輪廻転生―――死んでもまた新たな肉体に生まれ変わる―――という観念の起源は古く、少なく見積もっても2500年はさかのぼることができます。(p3)

 

輪廻転生は、非常に広汎な地域で受容されている。

 

生まれ変わりという考え方が必ずしも「宗教信仰」に依拠しているのではなく、それとはまた異なる水準で、人びとのあいだに広がっている。(p13〜17)

 

 「輪廻転生」という観念が、これほど古くから、しかも広い地域で土着的に受け入れられていることにビックリしている。ある調査(輪廻転生を信じますか?)によれば、「あると思う」と答えたのは、日本は、42.1%だそうです。ちなみに1位はスリランカで68.2%、2位は台湾59.4%、3位はイスラエル(ユダヤ人)53.8%。(p14図参照)

 

個人的には、今まで「輪廻転生」には否定的だったが、前世を記憶している子どもたちがいることを知り、まれに「輪廻転生」あるかも?と思い始めている。

 

 

本書の主題から外れるが、「進歩史観と退歩史観」についての記述は驚きだった。

現代の高度資本主義社会を生きる多くの人にとって、<進歩>の観念はじつに馴染み深いものとなっています。しかし、このような考え方が広がり始めたのは、せいぜい200年前のことにすぎません。それ以前は---現代人にはなかなか想像しがたいですが―――むしろ人類は退歩していると考えるほうがはるかに自然なことだったのです。

<進歩>の観念は人類史に忽然と登場したわけではありません。それが現在のようなリアリティを獲得するためには、長いプロセスをへて、旧世界を支配していた強固なパラダイム(=退歩史観)を打ち破る必要がありました。進歩の観念が強固なものとなったのは近代以降の工業化社会においてですが、ここに到達するまでには、17世紀以降の科学革命と啓蒙主義の普及、そして19世紀の産業革命と、いくつかの歴史的転換点を通過する必要があったのです。(p123〜124)

 

また 、1857年に出版された『霊の書』(アラン・カルデック著、霊との質疑応答集)に関連して、興味深い記述がある。

個人主義に基調をおくリインカネーションの思想は、きわめて独特な「災因論」を説きます。災因論とは、人生における災厄がなぜ他ならぬこの私の身にふりかかるのか、それを説明するロジックのことです。苦難を偶然とは見なさず、そこに何らかの原因や意味を見出そうとするのです。

 

(✳『霊の書』からの引用部分)

       カルデック:遍歴の状態にあり、これから新しい肉体に宿ろうとしている霊が、自分の次の人生で起こることを予見することはありますか?

     〈霊〉:霊は自分が受ける試練を自分で選ぶのだ。そして、この選択の自由のなかにこそ、霊の自由意思というものが存在している。

 

 

このあとの問答でも「人生の苦難はみずからに課す試練として自分自身で決定する」と〈霊〉は明言しますが、この発想は斬新です。従来の災因論であれば、人生における災難とは、神霊の怒りを買った結果であったり、妖術師からかけられた呪詛の結果であったり、はたまた前世で犯した自分の悪業の結果であったりと、いずれにせよ極力さけるべきものだったからです。(p114〜115)

 この部分がなぜ興味深いかというと、思想的な背景は異なるが、日本の仏教にも似たような考え方があるからだ。たぶん竹倉さんもご存じなんだろうと思うけど、「願生(がんしょう)」「 願兼於業(がんけんおごう)」という言葉で表されている。個人的には、これらの考え方には否定的なのだが、ある一定の人びとにとっては救いとなっているようだ。

 

『輪廻転生』と『仏教思想のゼロポイント』を交互に読むと、不思議な調べが流れる。

 

 
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輪廻転生 〈私〉をつなぐ生まれ変わりの物語 (講談社現代新書)
 

 

 

仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か

仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か

 

 

読書メモ『治りませんように』

『治りませんように〜べてるの家のいま』(斉藤道雄   みすず書房  2010年)  を読み終えた。「べてるの家」関係は4冊目かな?読むたびに新たな発見がある。 

 

べてるの家の作業場や日赤病院のデイケア棟で、一週間に一回から二回のペースで開かれる当事者研究には、十人から二十人、多いときには三十人ほどの仲間がやってくる。研究とはいえ、それが基本的に精神障害を抱える当事者が自分自身を「語る場」であることは、ほかの多くのミーティングと変わらない。しかしまた研究であるがゆえに、当事者が語ることがすべてそのまま受けとめられるわけでもない。しばしば語ったことにはどのような意味があるのか、語りの背後にはなにがあるのか、あるいは語りが覆い隠しているもの、語られなかったことはなんであるかが参加者によって語られ、語りなおされる。そのための試みがあくことなくくり返される。たしかに浦河弁が多用され、語られることには省略や飛躍がまじって訪問者にはわかりにくい場面もあるが、難解なことばや理屈が宙を舞うわけではなく、日常のことばで、暮らしの会話として、研究は進められる。(P140)(太字は、私が。)

 動画がその様子を伝えてくれる。

 


べてるの家 当事者研究 2010 1/3

 

自分の弱さをさらけ出すというのはなかなか出来ないことだと思う。恥ずかしいし、こんなことで悩んでいるのか、とバカにされそうで・・・。でも、ほんの少しの勇気をもって言ってみると、それを受け止めてくれる人たちがいる。決してバカにすることなく、逆に「苦労したんだね」「よく頑張ったね」と言葉をかけてくれる。そういう人たちがいるだけで「ホッ」としてしまう。「難解なことばや理屈が宙を舞うわけではなく、日常の言葉で、暮らしの会話として」という文章を読んで、反省してしまう。ともすれば「難解なことばや理屈」に憧れる傾向性の強い私としては、胸に「グサッ」と刺されたような気がした。

 

 

治りませんように――べてるの家のいま

治りませんように――べてるの家のいま

 

 

読書メモ『「憲法改正」の真実』

『「憲法改正」の真実』(樋口陽一小林節 集英社新書 2016年)を読んだ。日本の未来を思うと気分が落ち込んでしまった。本を読んでこんなに暗い気分になったのは久しぶりだ。

 

この本では、ふたりの憲法学者が、自民党による憲法改正草案(2012年4月公表)を分析し批判している。この草案に見られる「隠された意図」は何なのだろうか?トカゲのシッポをつかんでもすぐに逃げられてしまうから、トカゲ本体を捕まえないと「憲法改正」の真実は見えてこない。

 

実態はどうなのだろう?

小林:最近の国会の風景をご覧になっていてお気づきのように、我が国与党の国会議員の多くは、「そもそも、憲法とはなにか」という基本的な認識が欠如しています。(中略)

樋口:つまり、彼らには憲法というものの概念、コンセプトそのものに対する基本的な共通認識がない、ということですね。

小林:そうなんですよ。自民党とのつき合いは30年あまりになりますが、そのとおりだと残念ながら申し上げるしかありません。(p19〜20)

 

小林:驚くべきことは、国政を担う彼らが、近代憲法とはなにかについて、まったくと言っていいほど理解を示さない、理解できないということです。(p22) 

 これは驚きというかあきれてしまうナア。

 

「確実に国民の命を守る役割」が憲法の新しい要素=「授権規範」である、という高市議員の主張は、憲法学の知識が欠如しているがゆえの言葉の誤用です。

しかし、単なる用語の間違い、概念の混乱という以上に、この高市議員の主張が問題なのは、自民党憲法観の間違いが、ここににじみ出ているからです。この論調は、権力に対して無限に「授権」し、国民を制限するのが「新たな憲法」の役割だという方向に転化しかねない。

樋口:国家に与えられている権力は、国民の権利や自由、基本的人権を侵害しないという「制限規範」に縛られた条件つきなのです。そういう認識が彼らにはないのです。(p27〜28)

 これはもう絶望しかないですね。

 

【参考になったサイト記事】

yuruneto.com

 

小林: 彼らの共通の思いは、明治維新以降、日本がもっとも素晴らしかった時期は、国家が一丸となった、終戦までの10年ほどのあいだだった、ということなのです。(P32)

 

小林:先ほどの立憲主義は時代遅れだという安倍首相の発言は、人民に選ばれた俺たちを優先しろ、ということでしょう。民主主義で選ばれた我々を、憲法が制限するのはおかしい。立憲主義など、民主政治のもとでは価値がない、と言わんばかりですから。

樋口:そうなんです。立憲主義で民主主義を制限するのはおかしいというロジックです。(P41)

 

 ほんの一部の人たちの動きなんだろうけど、その人たちが国会に巣食っているために影響は甚大だ。国民は「なめられている」。「なめんなよ❗」の気持ちを保ち続けることが大事なのかもしれない。

 

「憲法改正」の真実 (集英社新書)
 

 

 

 

 

日本会議の研究 (扶桑社新書)

日本会議の研究 (扶桑社新書)

 

 

 

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読書メモ『原発と日本の核武装』

原発と日本の核武装原子力事業のタブーを明かす』(武田邦彦  詩想社新書 2016年)より。

 原発推進派と反対派それぞれの主張を客観的に分析している。これは参考になる。武田氏の言うとおり、まず「感情論」で賛成か反対かが決まっているというのは頷ける。また、マスコミ、特にテレビや新聞報道の問題点もそのとおりだと思う、そのニュースソースである政府・官僚の思惑も。(今まで「地球温暖化」を鵜呑みにしていたが、武田氏の言うとおりであれば、問題外ということになる。)

 

科学的な考え方を何回も強調されている。マスコミや政府のウソやダマシに惑わされないために必要というのは賛成。

 

「日本の核武装」というのは、よく分からない。抑止力としての核武装ということか?今の状況では、それを選択せざるを得ないのかなあ・・・。ただ、核兵器の原材料があり、ロケット技術もあるので、日本が核武装する条件は整っている、というのは理解できる。

 

本書を読んで連想したのだが、戦後の日本でかつて「3S政策」というものが行なわれた。「スクリーン又はスポーツ」「スピード」「セックス」の頭文字を取って作られた言葉だ。2020年の東京オリンピックなどはまさしく「3S政策」の延長であろう。福島原発から注意を逸らすのに、ちょうどいいものを見つけたものだ。

私見だが、ひとりひとりが「科学的思考」を身につけ、政府やマスコミなどが「秘密」にしていることを見つけ出し、多くの人々とネットなどで「共有」することが、3S政策に対抗できる一つの方法ではないかと思う。(科学的思考:scientific thinking  秘密:secret  共有:share・・・無理に当てはめて3Sにしてみた。)

 

本書の 目次より一部抽出。

〇 実は新幹線よりも耐震性が弱い日本の原発

原子力安全神話はまさしく神話であった

〇 目前に迫っていた日本列島の最大の危機

〇 日本人全員を16回以上殺害できる量の放射性物質が放出された

原発の立地はこうして決まる

〇 いまだにある原発は安全で経済的だという錯覚

〇 被曝と健康への影響に関するデータは不足している

〇 とりあえず原発は止めておいた方がよいと考える理由

〇 民主主義とは意見の異なる人を認めること

〇 一万人の専門家の誰もが見誤った原発の安全性

津波対策ができれば再開できるというのはトリックだ

〇 純粋にコストだけ見れば化石燃料がもっともお金がかからない

〇 法令よりも外国のどこかの任意団体の意見が重視される異常さ

〇 避難する住民を欺いた「風向き」の隠蔽

〇 自分たちだけが逃げたマスコミ

〇 汚染がひどいので、変えられた安全基準

〇 海洋生物へのストロンチウムの蓄積

〇 いまだに残る食材への不安

〇 日本はすでに核爆弾の原料をこれだけ持っている

〇 あきれるほど非科学的な社会

 

 また、本書の主題から少しずれるが、「温暖化」に関して。今は南極、北極に氷があるので氷河期であると武田氏は言う。調べてみると、概ね氷河期或いは間氷期という考え方が多いようだ。南極や北極の氷が溶けても海面は上昇しない、というのにはビックリした。

 

氷河学的には、氷河期という言葉は、南半球と北半球に氷床がある時期を意味する事が多く、この定義によれば、グリーンランドと南極に氷床が存在する現代、我々は未だ氷河期の中にいることになる。(中略)この意味でいえば、最後の氷河期は1万年前に終了したということになる。この約1万年前に終わった出来事を、文献によっては「最後の氷河期」と記載していることもあるが、科学者の多くは氷河期が終わったのではなく、氷河期の寒い時期「氷期」が終わったとし、現在を氷期氷期の間の「間氷期」と考えている。(Wikipedia 氷河期より)

 参考記事

yahuhichi.com

 

 

 

 

原発と日本の核武装 (詩想社新書)

原発と日本の核武装 (詩想社新書)

 

 

読書メモ『君たちはどう生きるか』

家族から借りて『君たちはどう生きるか』(吉野源三郎 岩波文庫 1982年刊)を読んだ。以前から、読みたいと思っていた本だった。

1937年(昭和12年)に書かれたもののようだ。しかし、内容は全く色褪せていない。その中でも、いくつかある「おじさんのNote」というのが大変興味深い。その内の一つが特に興味深いので長くなったが以下に引用させていただいた。

 

 

 

コペルニクス的転回というのは、なかなか受け入れがたいものだったのだろう。それまでのように天が動くと信じる人が大部分だったことを歴史は証明している。周りのほとんどの人々が、天が動くと信じていれば、そして日常生活になんの不便もなければ、当然そうなるだろう。現代においてさえ、「進化論」を信じないで、「ノアの箱舟」を信じている人々がいる位だから。

 

しかし、コペルニクスは、天文学上の事実に出会って悩んだ末、地球が動いていることを表明した。まさに革命的だ。(古代インドにおいて、目覚めた人たち(ブッダ)が、当時の一般的な宗教であるバラモン教に対して、真逆の事を説いたことを思い起こさせる。)人間が、自分中心に見ることを横に置くことは、至難の技なのかもしれない。ただ一旦、別の視点を手に入れてしまうと、案外すんなりと受け入れてしまうものだが。

 

たとえ、コペルニクスが言っても言わなくても、自然の法則に変わりはないわけで、宇宙は何の変化も見せずに淡々と動いていく。人間だけが右往左往している。

 

時には、何かがきっかけで(それが大事件かそうでないかは様々だが・・・)、強制的にコペルニクス的転回をせざるを得なくなる場合があるかもしれない。(たとえば、日本の敗戦による価値観の大幅な変更など。)その場合の、人間の対応力の高さには、驚かされることが多い。

 

ものの見方について

 君は、コペルニクスの地動説を知ってるね。コペルニクスがそれを唱えるまで、昔の人は、みんな、太陽や星が地球のまわりをまわっていると、目で見たままに信じていた。これは、一つは、キリスト教の教会の教えで、地球が宇宙の中心だと信じていたせいもある。しかし、もう一歩突きいって考えると、人間というものが、いつでも、自分を中心として、ものを見たり考えたりするという性質をもっているためなんだ。

 

ところが、コペルニクスは、それではどうしても説明のつかない天文学上の事実に出会って、いろいろ頭をなやました末、思い切って、地球の方が太陽のまわりをまわっていると考えて見た。そう考えて見ると、今まで説明のつかなかった、いろいろのことが、きれいな法則で説明されるようになった。(中略)

 

しかし、君も知っているように、この説が唱えはじめられた当時は、どうして、どうして、たいへんな騒ぎだった。教会の威張っている頃だったから、教会で教えていることをひっくりかえす、この学説は、危険思想と考えられて、この学説に味方する学者が牢屋に入れられたり、その書物が焼かれたり、さんざんな迫害を受けた。世間の人たちは、もちろん、そんな説をうっかり信じてひどい目にあうのは馬鹿らしいと考えていたし、そうでなくても、自分たちが安心して住んでいる大地が、広い宇宙を動きまわっているなどという考えは、薄気味悪くて信じる気にならなかった。今日のように、小学生さえ知つているほど、一般にこの学説が信奉されるまでには、何百年という年月がかかったんだ。

こういうことは、君も『人間はどれだけの事をして来たか』を読んで知っているにちがいない。が、とにかく、人間が自分を中心としてものを見たり、考えたりしたがる性質というものは、これほどまで根深く、頑固なものなのだ。

 

コペルニクスのように、自分たちの地球が広い宇宙の中の天体の一つとして、その中を動いていると考えるか、それとも、自分たちの地球が宇宙の中心にどっかりと坐りこんでいると考えるか、この二つの考え方というものは、実は、天文学ばかりの事ではない。世の中とか、人生とかを考えるときにも、やっぱり、ついてまわることなのだ。

 

子供のうちは、どんな人でも、地動説ではなく、天動説のような考え方をしている。子供の知識を観察して見たまえ。みんな、自分を中心としてまとめあげられている。(中略)

それが、大人になると、多かれ少なかれ、地動説のような考え方になって来る。広い世間というものを先にして、その上で、いろいろなものごとや、人を理解してゆくんだ。(中略)

 

しかし、大人になるとこういう考え方をするというのは、実は、ごく大体のことに過ぎないんだ。人間がとかく自分を中心として、ものごとを考えたり、判断するという性質は、大人の間にもまだまだ根深く残っている。いや、君が大人になるとわかるけれど、こういう自分中心の考え方を抜け切っているという人は、広い世の中にも、実にまれなのだ。殊に、損得にかかわることになると、自分を離れて正しく判断してゆくということは、非常にむずかしいことで、こういうことについてすら、コペルニクス風の考え方の出来る人は、非常に偉い人といっていい。たいがいの人が、手前勝手な考え方におちいって、ものの真相がわからなくなり、自分に都合のよいことだけを見てゆこうとするものなんだ。

 

しかし、自分たちの地球が宇宙の中心だという考えにかじりついていた間、人類には宇宙の本当のことがわからなかったと同様に、自分ばかりを中心にして、物事を判断してゆくと、世の中の本当のことも、ついに知ることが出来ないでしまう。大きな真理は、そういう人の眼には、決してうつらないのだ。もちろん、日常僕たちは太陽がのぼるとか、沈むとかいっている。そして、日常のことには、それで一向さしつかえない。しかし、宇宙の大きな真理を知るためには、その考え方を捨てなければならない。それと同じようなことが、世の中のことについてもあるのだ。(p23〜27)

 

 

 

 

君たちはどう生きるか (岩波文庫)

君たちはどう生きるか (岩波文庫)

 

 

J-3444

「箱根駅伝」を批判的に見てみると・・・。

1月になると、様々な「駅伝」のテレビ中継が流れてくる。その筆頭は、「箱根駅伝」かな。

 

女子の京都での「駅伝」は、雪で真っ白になって大変そうだった。男子の「駅伝」は、広島だったが、それでも時折、雪や雨が降っていた。

 

これら「駅伝」のテレビ中継を見ていて、ふと思ったのが「途中棄権」ということだった。特に「箱根駅伝」は、距離も長く気候の変化も大きい。そして何よりも伝統と仲間の絆を求めるプレッシャーは、相当なものがあるようだ。

 

箱根駅伝」の「途中棄権」の詳細については、「東京箱根間往復大学駅伝競走 - Wikipedia」「途中棄権」の項目が詳しい。

 

先日の箱根駅伝でも、青山学院の選手の一人がフラフラになりながらも走りきって襷をつないだ。それはそれで「頑張った!」と評価されるのだろうなあ。でも、ちょっと疑問が湧いてきた。かなりひどい状況でないと途中棄権は、しずらいのではないか?周りの様々な圧力があって、そう簡単には辞められないのだろうなあ。何か日本社会の現実を見せられたような気がした。

 

この「箱根駅伝」について、今まで考えたこともなかったが、この途中棄権をきっかけに、批判的な意見を捜してみたら、いくつかありました。

 

 

makelele.jp

 

1、箱根駅伝を重視するあまり、マラソンと中距離で世界的に活躍する選手が育たない。

2、箱根駅伝が大学の宣伝に見えてしまう。

3、視聴率を上げるための「お涙ちょうだい演出」が好きじゃない。

 ですか。

 

fantasy-dig.net

 

為末大(@daijapan)のツイートより。

日本の長距離と世界の差が開けば開くほど、駅伝に海外の選手を入れると

興ざめするぐらい差がついてしまい、競争を盛り上げるために鎖国せざる

を得なくなる。それでも駅伝の人気が続くことに賭けるというのならわか

るけれど、あまり成功すると思えない。

2015年3月2日 23:26

 

ナルホドですねえ?

 

今までの「箱根駅伝」の見方が変わってしまう。

 

 

 

読書メモ『「べてるの家」から吹く風』『安心して絶望できる人生』

『「べてるの家」から吹く風』(向谷地生良 いのちのことば社 2006年)を読んだ。

(「べてるの家」は、ブログ「古本屋の殴り書き」で初めて知った。)

 

    実例をそのまま書いているのだろうが、その表現がユニークで、思わず笑ってしまった。だけど、現実は大変なんだろうなあと、何か涙ぐみそうになってしまった。「べてるの家」があって本当によかったなあ。

 

何しろ表現がユニークだ。

出動!  爆発救援隊

隊長、爆発!

爆発三兄弟

当事者研究

幻聴さん

幻聴さんレスキュー隊

人間アレルギー

逃亡失踪症

べてるウイルス感染症

幻覚&妄想大会

ぱぴぷぺぽだったで賞

etc.

 

そして、もう一冊の本『安心して絶望できる人生』(向谷地生良浦河べてるの家   生活人新書 2006年)で、最も印象に残った文章がこれです。

 

べてるには、何人もあきらめの達人がいます。その一人が清水里香さんです。彼女は、あきらめることに関して、このように書いています。

 

「『だめなままの自分を受け入れよう』ということにこだわることもやめ『あきらめるしかない』と思い、今まで自分が必死にしがみついていた手綱を手放したとき、手放したことで自分にマイナスになるものが何一つないことがわかかったのである。

 

〝あきらめる〟というと、すごく大切なものをいろいろと捨てるような感じがする。苦しんでいる時は、『だめな自分のままでいいんだ』ということを受け入れられない自分に、無性に腹が立っていた。しかし、『だめなままの自分を受け入れられない』ので、悪戦苦闘の結果として、『悩むことをすべて放棄する』ことにしたのである。そういう遠回りをして、やっと『ダメな自分のままでいいというのは、こういうことか!』とわかるようになった。

 

あきらめることーーーーそれをべてるでは、生き方の高等技術としてとても大切にしている。いまでは、現実に起きていることを明らかにしてそれをすべて受け入れることなのだと思っている。あきらめることは、はじめの一歩に立つことである。そのことを、話したり講演に行ったり、実際に生きている人たちの姿を見ているうちに実感できるようになった」(『べてるの家の「当事者研究」』医学書院より)

(p48〜49)

 

これは、正直十分にわからない部分もあるのだが、何か大切なメッセージが込められているように感じた。仏教には、「四諦」という言葉がある。どこか共通するものがあるようにも思われる。

 

精神の病は、いつ、誰が発症しても不思議ではない、と思う。私も片足を突っ込んでいるのかもしれない。だからこそ、これらの本に共鳴できるのかもしれない。また、親戚に「爆発系」の子がいる。爆発すると、7〜8時間、家族は心休まるときがない。実に大変だ。

 

べてるの家」に関して、武田鉄矢がラジオ番組で取り上げていた。一時間六分という長いものであるが、分かりやすくて参考になる。 この放送のベースになっているのは、斎藤道雄さんの書かれた『治りませんようにーべてるの家』という本である。

 


「べてるの家」 今朝の三枚おろし 2011.08

 

 このダイジェスト(文章のみ)はこちらです。

『武田鉄矢「今朝の三枚おろし」からオススメ本とためになる話

 

「べてるの家」から吹く風

「べてるの家」から吹く風

 

 

 

安心して絶望できる人生 (生活人新書)

安心して絶望できる人生 (生活人新書)

 

 

 

治りませんように――べてるの家のいま

治りませんように――べてるの家のいま

 

 

 

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 近所にも、このような赤い実が一杯実っていた。