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ガラガラポン日記

複雑になってしまった問題を、一度ゼロにして、考え直してみる。

読書メモ『人生を半分あきらめて生きる』〜「ま、いっか」と思えるようになろう(^o^)

本の抜き書き

諸富祥彦著『人生を半分あきらめて生きる』 (幻冬舎新書 2012年)を、図書館から借りてきた。

日頃、何かモヤモヤしていた部分が、この本を読むことによってスッキリしたような気がした。

この人生、「努力すれば報われる」などというのは真っ赤なウソで、いくらがんばっても、何ともならないことだらけです。 多くの人の人生は、仕事も、お金も、恋も、結婚も、友人関係も、子育ても、思い通りにならないことばかりです。老いや病や突然の死も、ある時、否応なく襲ってきます。そして年を重ねれば重ねるほど、また人生のある時点で一挙に、この「思い通りにならないこと」は増えてきます。それが、ふつうの人のふつうの人生です。多くの人は、顔では笑っていても、心のうちでは、何か「思い通りにならないこと」の一つや二つは抱えていて、その思い通りにならない現実を「ま、いっか」とあきらめ、割り切りながら生きているものです。(p12)

 なるほどですねえ。たしかに、自分や周囲の人をみてそう思います。特に高齢者はそうですね。体力的に明らかに衰えが目立ちます。自分では、まだできると思っていても、身体が言うことを聞いてくれません。無理をすれば、「痛み」という形で身体から強烈なしっぺ返しを食らいます。くわばらくわばら。

 

そんな、思い通りにならないことだらけの人生を、何とか生きしのいでいくためには、「がんばること」「あきらめないこと」ばかりでなく、それと同等か、ある意味ではそれ以上に「じょうずにあきらめること」が重要になってきます。それは、「人生は、真っ白ではなく、といって真っ黒でもない、濁りきったグレーなもの」であるということを受け入れていく喪の作業です。この「人生のさまざまな可能性を少しずつあきらめ、現実を受け入れていく力」なしでは、厳しい現実を生きしのいで行くことはできないのです。(p12〜13)

 

本書のエピローグから。

日本人には、「あきらめずに、がんばる」ことをよしとする一般的な風潮が強くあります。本書では、これに逆らって、あえて「人生を半分、あきらめて生きる生き方」を提唱しました。

その理由は、主に、3つあります。

ひとつは、私自身を含め、日本人の多くが、「がんばること」「あきらめないこと」は得意でも、じょうずに何かを「あきらめること」はたいへん苦手で、そのため人生で大切な何か(目標、仕事、結婚、恋愛、美貌など)をあきらめざるをえなくなると、あまりにつらく、苦しい日々を送るはめになるからです。(p240)

 

本書で「半分あきらめる」生き方を提唱した2つ目の理由は、「あきらめない」気持ちが強すぎるがために、目標に到達できない自分を否定し、焦り、自分を追い込み苦しんでいる「自己否定傾向の強い人」がとても多いからです。(p243)

 

 本書で、「半分あきらめる生き方」を提唱した3つ目の理由は、日本社会を「安心してあきらめることのできる社会」「安心して失敗することのできる社会」「敗者復活のルートが多様に、かつ、細やかに整備された社会」にしていきたいという思いがあるからです。(p246)

 

日本人は「人並み教」、「ふつう教」の信者と言ってもいい面があります。

安心して何かをあきらめることができ、安心して暮らすことのできる社会をつくっていくためには、私たちがまず自分をこの「人並み教」、「ふつう教」から解放する必要があります。言葉をかえれば、それは「自分の中の多様性を認めること」であり、「自分の中の異物、多様性を認めること」でもあります。(p247〜248)

 

 これはなかなか難しい面もありますね。どうしても「人並み」、「ふつう」という方向に流れてしまいますね。日頃から注意していきたいと思います。

 

 

 

人生を半分あきらめて生きる (幻冬舎新書)

人生を半分あきらめて生きる (幻冬舎新書)