ガラガラポン日記

複雑になってしまった問題を、一度ゼロにして、考え直してみる。

読書メモ『終活なんておやめなさい』

『終活なんておやめなさい』(ひろさちや 青春出版社 2014年)を読了(^o^)

タイトルからイメージするのとは違って、面白くて有益だった。

いくつかの点で新しい知識を得たし、それまで漠然と思っていたことがはっきりと書かれてあって、納得した点もある。著者の紹介文に「「仏教原理主義者」を名乗り、本来の仏教を伝えるべく執筆、講演活動を中心に活躍中」と書いてあったのを見て、なるほどですねえと思った。私もこれから、「仏教原理主義者」と名乗ろう(^_^)v

 

参考までに、見出しのいくつかを載せてみます。これだけでも何となくこの本のイメージが湧いてくるのではないかと思います。

 

1章から

遺言書なんていらない

親の遺言書があっても無視、無視

 

2章から

「オレの葬式はオレが決める」の大間違い

葬式は、したくなきゃしなくていい

香典は大正期からの間違った習わし

葬式の三つの仕事

       通夜のもともとの意味

       即得往生

       戒名、位牌、お墓、すべていらない

 

3章から

墓、墓参りの起源

墓参りを年中行事にする愚

散骨、おおいに結構

日本の「火土葬」は単なる風習

 

4章から

ホトケとカミと鎮魂儀礼

      年忌法要は日本だけ

正月こそカミを迎える儀式

お盆はホトケを迎える神道行事

位牌は儒教の産物

 

5章から

「霊魂は考えるな」がお釈迦様の教え

私たちに霊魂は必要か

      忘れるという供養

逝く人の幸せを考える

空也上人の地蔵和讃

野口雨情の長女の死

 

6章から

死は点ではない

      死とのつきあいかた

 

7章から

美しく死にたいという苦

孤独死を恐れるな

煩悩の火を弱める

世の中は役割分担でできている

 

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これらのタイトルの中で特に印象に残ったものがあります。それは、「忘れるという供養」です。

私たちが死者に対してすべきもっとも大事なことは、「忘れてあげる」ことです。(p131)

 

残された人が死者を思えば思うほど、その不憫さを嘆けば嘆くほど、それは死者の苦しみを増す因(もと)となる。なぜなら、自分の死によって残された人を嘆かせることは、死者自身の罪だ、と仏教では考えるからです。(p143)

 

野口は最初の妻との間に長女をもうけますが、長女はうまれて七日で死んでしまいます。天に召されたあまりにもはかない命。野口は長女の死を嘆きに嘆き、日々、泣き暮らします。(中略)その卒哭忌(そつこつき)の夜、雨情は夢を見ます。子供たちが楽しげに遊んでいます。そのなかでたった一人、雨情の長女がその遊びの輪から離れて、独りぼっちでシクシク泣いているのです。その寂しそうな姿を見て雨情は声をかけます。

「どうしたのか?」

すると長女はこう答えるのです。

「だってね、お父さんがあんまり嘆くから、私の天使の羽が濡れてしまって、空を飛ぶことができないの」

たしかに、ほかの子供たちは羽で空中に浮き上がっています。夢から覚めた雨情はそれ以降、長女を思って泣くのをやめよう、と決心したとされます。(p145〜146)

 私は、父親の葬式で泣かなかったので、相方から「?」と言われたことがあるのだが、それで良かったのだ、と安心している。(^^;)))

 

死に向かっての変化は「老い」と呼んでもいいと思います。老いは生まれ落ちたその瞬間から始まり、確実に進行していきます。死は点としてどこか遠い先にあるのではなく、すでに老いとして自分のなかにあってその領域を増していくのです。(p170)

 

「もう、七十歳を超えたか。いったいいつ死がやって来るのだろう?」

ではなく、こう考えるべきなのです。

「もう、七十歳を超えたか。オレもだいぶ死んだなあ」

そして、自分のなかで深まりゆく死をしみじみ思いつつ暮らす。死から目をそらすでもなく、死を怖れるでもなく、恬淡として死と向き合うとは、そういうことではないか、と思います。さて、そんなふうに生きていたら、終活なんか要りますか。(p171)

これも意外な発想でした。たしかに(^^;)))

 

最後に、

みなさん、それぞれに固有の人生を送って、死んでいくわけですが、人生というものは、この世の中で生きているということは、ひとつの役割分担を引き受けていることだ、と私は思っています。(p202)

なかにはつらい役、苦しい役もある。ここで考えなければいけないのは、そうした役割をつとめた人を阿弥陀仏は、どう迎えてくれるか、ということです。この世でいい役割をつとめた人に対しても、「よくやったね」とねぎらってくれると思いますが、むしろそうでなかった人をより慈愛をもって迎えてくれる、と私は思っています。

劣等生の役割を担った人を、貧乏人をまっとうした人を、あるいは、不幸にして犯罪者の役を与えられた人を、

「つらい役を与えてしまったけど、よくやってくれた。偉かったね。おまえさんがきちんと役割をはたしてくれたから、世の中が成り立ったんだよ。ありがとう。」といって迎えてくれる。わたしはそう信じているのです。(p205)

 必ずしも「阿弥陀仏」でなくてもいいようです。それぞれの宗教の仏や神さまに、そのように迎えられるであろう、そう信じている、という主旨のようです。