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ガラガラポン日記

複雑になってしまった問題を、一度ゼロにして、考え直してみる。

読書メモ『いま〈日本〉を考えるということ』

本の抜き書き 身の周りの出来事

    最近、ツイッターを辞めたので、ついつい「つぶやき」風に記事を書いてしまいました。

    今回は、読書メモという事で、『いま〈日本〉を考えるということ』(山本理顕大澤真幸、木村草太 共著)を取り上げてみました。図書館の新着本です。

    山本理顕さんは「建築家」、大澤真幸さんは「社会学者」、そして木村草太さんは「憲法学者」という風変わりな組み合わせです。

 

まず、建築家・山本理顕さんの文章から。

    今、私たちが住んでいる住宅は、いつ頃からこのような住宅に住んでいるかというと、その起源は、はっきりしています。十九世紀に工場労働者のための住宅として供給が始まった、その労働者住宅が起源です。その特徴は、一つの家族が一つの住宅に収容されるという形式です。「1住宅=1家族」です。それは当時、全く新しい住宅の形式でした。それまでは、住宅には一つの家族だけではなくて、様々な人が同居していたのです。そして周辺の住宅と深く関係するようにつくられました。ところがその新しい形式の住宅は極めて閉鎖的につくられたのです。各々の住宅は相互に隔離されるように配置されたのです。隣り合った家族が相互にできるだけ出会わないように配置されました。それが労働者住宅の特徴でした。労働者たちを管理するために発明された形式だったからです。相互に隔離されるように配置されることが重要だったのです。そこに住む人びとを厳重に管理するための住宅だったからです。産業資本家たちが、労働者たちを家族単位で住まわせて、それを管理するという方法を発明したのです。それが住宅の起源です。今も私たちはそのような住宅に住んでいます。戸建て住宅であれ、マンションのような集合住宅であれ、その形式は全く同じです。相互に隔離されたような住宅です。(p18〜19)

     これは衝撃的でした。今まで当然と思っていたことが、実は労働者管理のために工夫されたものだったとは。たしかに、一戸建て住宅やマンションなどを見てもその通りです。知らず知らずの内に、ある方向に誘導されていたとは。まるで、人に監視誘導されている牛や羊の群れを連想させます。何ということか!

   この話に関連して、木村草太さんは、望ましいとは思っていないけど他の選択肢がないためその空間に没入してしまうという、「アイロニカルな没入」という大澤真幸の言葉に繋げている。

 

    山本理顕さんは、住宅と家族の関係についても述べている。

家族も一種の擬態なのです。われわれは家族を演じているわけです。それは、大澤さんのおっしゃる「アイロニカルな没入」ともいえるでしょう。

    ではいつからいまのような家族の擬態を演じるようになったかというと、冒頭で述べたとおり、日本では一九五五年に住宅公団ができた頃ではないかと思います。(中略)団地は住宅公団がつくってるから団地です。県営住宅や市営住宅も同じ形式です。そこでは、家族の幸福こそがもっとも重要だということを、団地をつくることによって日本の多くの人たちに教育していった。フーコーのように言えば「ディシプリン(規律・訓練)」だったわけです。それによって、われわれは家族の幸福を目標にして、幸福な家族をみんなで演じたわけです。(p103〜104)

  いわば家族信仰ともいうべきものが、広まっているように感じる。 結婚し、子供をもうけて「一家和楽」の姿を理想とするような・・・。しかし、実態は必ずしも皆さんそのような人生を生きているわけではない。千差万別なのに。

 

    木村草太さんによる、「大澤真幸」さんの考え方の解説が分かりやすかった。大澤さんが、こんなに豊かな発想をお持ちだったとは・・・。改めて「大澤真幸」さんの著作を読んでみたいと思った次第です。

 

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いま、〈日本〉を考えるということ (河出ブックス)