ガラガラポン日記

複雑になってしまった問題を、一度ゼロにして、考え直してみる。

日光東照宮

    先日、ロンブー淳日光東照宮を説明している番組を、たまたま見た。番組名は、「正しくお参り!バッチリ開運!やしろツアーズ3」というものだった。 いろいろ参考になることが多かったのだが、ちょっと気になったことがあった。それは、①なぜ徳川家康の墓に向かって祈るのかナア? ②なぜ人は願い事を祈るのかナア?ということです。

 

   今日、玄侑宗久さんの著作『日本人の心のかたち』(角川SSC新書  2013年刊)を読んでいて、①の答えがあった。

    ちなみに駿府城で亡くなった家康公は、死後に東照大権現と呼ばれる神になる。「権現」とは、神や仏が仮(権)に現われる姿のことだから、家康公は神さまの仮の姿だった、という解釈である。「神」が時に「仏」として現れたり、逆に「仏」が「神」として現れることは「権現」の名のもとにすでに認められた考え方だったわけだが、東照大権現の登場で、とうとう神は人とも「不二」になってしまったのである。(p177)

 なるほどですねえ。この本の大きなテーマは「両行」と「不二」ということなのだが、「不二」の参考例として徳川家康東照大権現に言及されていた。

 

    つまり、家康という人間が神になったのではなく、神が家康だった、ということかな?と勝手に解釈してみた。(ん? ちょっと違うかな?)

 

②なぜ人は願い事を祈るのか?については、よくわからない。「祈る」という表現がいいのかどうか、という問題もあるが・・・。人は、願い事を祈りたがる「傾向性」があるように思われる。個人的には、この「願い事を祈る」ということに関しては「否定的」なのだが、完全に断ち切ることが出来ないものでもある、と思っている。別に「否定」しなくてもいいじゃない?と軽くスルーされそうだが、どうも引っかかる部分があるので、これからも答えを探し求めていこうと思っている。

 

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