ガラガラポン日記

複雑になってしまった問題を、一度ゼロにして、考え直してみる。

読書メモ『補欠廃止論』

図書館で、「セルジオ越後」の名前に惹かれて『補欠廃止論』(セルジオ越後   ポプラ新書    2016年)という本を借りてきた。

僕には、何十年も主張し続けてきたことがある。それは日本サッカー、いや団体スポーツを強くするためには、部活動などの子どもの教育現場から「補欠制度」を撤廃しなくてはならない、ということだ。(p14)

 

部活という教育の現場に、補欠が存在するのはとんでもないことだ。学校で「君はテストの点数が悪いから補欠です。テストの点数がよくならない限りは、授業は受けられませんが、毎日登校して仲間を応援してください」と言われたら、どう思うだろうか?本人や親は烈火のごとく怒るだろう。

しかし、同じ教育目的の部活動には、補欠制度が存在する。これはおかしいと思わないのだろうか?

そういう意味で僕は、補欠制度は差別に値すると考える。(p16) 

 

我が家の子供も中学生時代、サッカー部に所属していたがずーっと「補欠」だった。テレビで甲子園の高校野球を見ると、スタンドにユニホームを着た多くの野球部員がいる。下級生は別として上級生はベンチに入れないので「補欠」なんだろう。(セルジオ越後さんは、「ベンチにいて試合に出られる可能性のある人は「控え」で、スタンドにいて試合に出られない人を「補欠」」(p17図)と分けて説明している。)

 

この本のタイトルは、「補欠廃止論」という事で、日本では常識と思われていることを鋭く指摘している。そういう意味でインパクトがあるが、より求めているのは日本のスポーツ全体のあり方だと思う。

 

この記事を書いているときも、高校の登山部の安全講習で遭難があり、多くの高校生が亡くなったというニュースが流れていた。本書では、学校の部活動のあり方についても現状の改善を求めている。教員の負担も大きいようだ。学校の枠を外した地域のクラブの利用など多角的な方法を勧めている。

 

私見だが、人々は、「学校」に多くを望みすぎている、あるいは依存しすぎているのではないだろうか。明治以降、国家主義の担い手を育成したのは、「教育勅語」に代表される学校教育だと思っている。様々な角度から「学校」というものを見直していくことが必要だと思う。

 

本書の最後でセルジオ越後さんは、こう書いている。

僕が理想とする未来ーーー。それは、子供たちの世界から補欠制度を廃止することであり、体を動かすことの楽しさを知り、週末は家族や友人たちとスポーツ観戦するようになることだ。スポーツが、決して体育や習い事の延長としてのものではなく、生活の一部になっているのが理想だ。(p151〜152)

 

「生活の一部」というのがいいなあ。 

 

 

frosty_morning

 

 

(096)補欠廃止論 (ポプラ新書)

(096)補欠廃止論 (ポプラ新書)