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ガラガラポン日記

複雑になってしまった問題を、一度ゼロにして、考え直してみる。

読書メモ『呆けたカントに「理性」はあるか』

図書館本『呆けたカントに「理性」はあるか』(大井玄  新潮新書 2015年)読了。

著者の大井玄さんは、医師として終末期医療に携わっておられる。

 

 

本書の「はじめに」で、医師が、重度認知症の患者に「胃ろう」をつけるか?と聞く場面がある。私は、びっくりした。私の母は重度の認知症で、特別養護老人ホームにお世話になっている。そのような母に、重要な選択を「聞く」という発想自体がなかった。しかも、その患者は即座に「いやです」と答えたという。これまた予想外のことだった。意思表示がどこまで認められるか微妙な問題はあるのだろうが、考え込んでしまった。この部分が、本書の主要テーマである「理性と情動」「意識と無意識」「好き嫌いという直感的意思表示」へと繋がっていく。

 

 

認知症高齢者への対応について、日本とアメリカの対応の違いについて書かれている。アメリカの方が施設入所後の余命が短いらしい。

アメリカでは、自立できなくなったらその時が生存の終わり、という生存戦略意識つまり倫理感覚があります。それは、個人はそれぞれが独立した宇宙であって、その中心に自我があり、考え、判断し、行動するという人間観に基づくものです。

これに対し日本では、調和のとれた相互依存を通して生きるのが良いとする倫理感覚が代表的です。この倫理感覚は、自己と他者とは本質的につながった存在であるという人間観に基づきます。

いずれにせよ、二つの文化を生きた筆者には、日本の老人ホームで見かける介護の優しさには心打たれることが多いのです。(p29)

 たしかに、施設職員の「介護の優しさ」には頭が下がる。特に、食事の介助、排泄の介助、入浴の介助などは本当に手間がかかるし大変な作業だが、やさしく声かけしながら介助している。

ただ個人的には、重度の認知症であれば、アメリカ式の対応もありかなと思う。自分が認知症になれば、アメリカ式の対応を希望したい。人は長生きすれば、それだけでいいと言うわけでもない。

 

人間というものは、「理性」だけでは理解できないようだ。意識と無意識の世界に生きていることを、ありのままに認めることが求められているようだ。 

 


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(↑ FB 花の写真館より)

 

呆けたカントに「理性」はあるか (新潮新書)

呆けたカントに「理性」はあるか (新潮新書)