ガラガラポン日記

複雑になってしまった問題を、一度ゼロにして、考え直してみる。

読書メモ『「存在論的ひきこもり」論』

 図書館本『「存在論的ひきこもり」論〜わたしは「私」のためにひきこもる』(芹沢俊介雲母書房 2010年)読了。

「ひきこもり」と言えば、マイナスなイメージしか思いつかない。そんな私の固定観念を見事に打ち破ってくれた本だ。

「社会的ひきこもり」論から「存在論的ひきこもり」論への転換、これがこの本のテーマです。

次のように言ってもいいかもしれません。ここでのもくろみは、これまで引きこもっている人たちに向けられてきた、そしていまも向けられている否定的なまなざしを、肯定的なそれへ転換することである、と。(p8)

 

    はじめに否定的なまなざし、すなわち否定性から肯定的なまなざし、すなわち肯定性への転換と記しました。ここでいう肯定性とは受けとめです。受けとめの基本は、引きこもる本人・当事者を優先するということです。あえて言葉にすれば次のようになるでしょう。

 

「わたしは、あなたがいまそのようにあること、そのようにしか存在し得ないことを承認する。そして、たとえ引きこもることについての見解があなたと異なろうと、あなた自身の意欲にもとづかないかぎり、そのようなあなたの現実を修正するよう要求したり、強制したりすることはしない。あなたのいま・ここにある現実をまるごと尊重する」(p12〜13)

 

存在論的ひきこもり」の定義?

①引きこもることは、本人にとって切実な意味と動機をもった一連の行為、すなわちプロセスのある出来事であるということ。

 

②それゆえ、引きこもるという行為はそれがなくては本人が本人でなくなってしまう、そのような経験であるということ。

 

③したがって、引きこもるという経験は、本人の人生上の一時期を構成する不可避的、ないし必然的な一コマとして位置づけられること。

 

④それゆえ、引きこもることは捨てるべき不毛な否定的経験などではなく、逆に人生の次のステップへ進むための大切な基盤となりうるということ。(p48)

 

存在論的ひきこもり」という新しい概念を提起したいと考えたもう一つの理由があります。・・・初発における社会関係からの撤退、言い換えれば「社会的自己」の放棄は、「存在論的自己」がこれ以上傷つくのを防衛しようととった行動である、という視点を打ち出したかったからです。したがって、「社会的自己」の回復には、傷ついた「存在論的自己」の回復が先行しなければならない、これが「存在論的ひきこもり」論のメインテーマということになります。(p49)

 

 現実は様々である。本当にきびしい状況もある。攻撃的になることもある。それを止める家族の精神的な疲労は筆舌に尽くしがたいものがある。なんとか事なきを得たとしても、家族の心配は尽きない。それらの諸々を踏まえた上で、わたしはこの「存在論的ひきこもり」論に賛成したいと思う。今まで、否定的に見てきたことを反省したい。まだまだ「存在論的ひきこもり」論が身に付いていないが、ひきこもりの人たちの現実をありのままに受けとめようと思う。

 

(「ひきこもり」という言葉は、マイナスイメージを連想してしまうので、何か別の言葉で表現できればいいなあと思う。)

 

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「存在論的ひきこもり」論―わたしは「私」のために引きこもる

「存在論的ひきこもり」論―わたしは「私」のために引きこもる