ガラガラポン日記

複雑になってしまった問題を、一度ゼロにして、考え直してみる。

読書メモ『偶然とは何か』

『偶然とは何か』(岩波新書  2010年)。著者は、竹内啓さん。氏の専攻は、統計学、経済学、科学技術論。

 

最初、タイトルをみたときは、哲学書かな?と思ったが、ちょっと違った。統計的な説明や、確率論、リスクマネジメントなどの記述もある。少し難しい。

 

難しい文章が多い中、ホッとする話も書かれている。「予言ダコ」のパウル君だ。

「予言ダコ」のパウル君が、サッカーのワールドカップの八試合の勝敗の結果を予測して当てたことが大きな話題となった。・・・八試合全部を当てる確率は・・・約0.4%である。・・・少なくとも決勝トーナメントの五試合については、事前に予測して当てたことが伝えられている。そうするとその確率は・・・0.031………となって、まだ十分小さいと考えることができるから、やはり「不思議」とはいえるかもしれない。しかし、その程度の「偶然」は広い世の中でいくらでも起こることだから、「不思議な偶然が起こった」という程度にして済ますべきであろう。(p121~122)

 「不思議な偶然」というのは、「言い得て妙」だ。単なる「偶然」というと「予言ダコ」を信じている人たちは憤慨するだろう。「不思議な偶然」という言葉であれば、渋々頷きそうな気がする。

何かを信じたい、という人々にとっては、「不思議な偶然」もすべて「必然」に見えてしまうらしい。一度、この術中に嵌まると、抜け出すのは容易ではない。

 

「運」「不運」を分け合う、ということについて。

偶然というものは、本来不合理あるいは「不条理」なものである。したがって、自分にとって好都合な偶然は「幸運」であり、不都合な偶然は「不運」というよりほかはないのである。(中略)

 

「運」や「不運」は避けられないとしても、「幸運」からできるだけ多くの喜びを見いだし、「不運」のもたらす「惨めさ」や「悲しみ」をなるべく少なくすること、あるいは場合によっては「禍いを転じて福となす」ようにすることは、それぞれの人の努力によるところである。(中略)

 

もう一つ重要なことは、「運」や「不運」は他人と分かち合うことができるということである。(中略) つまり「不運」を分け合うことによって、人々は「不運」をもたらす偶然は防ぐことができないとしても、そこから生じる「不幸」は小さくすることができるのである。(中略)

 

「運」や「不運」は、各人にとっては、結局は自ら引き受けなければならないものであるとしても、社会の中で、自分の「幸運」は当然自分の権利であり、他人の「不運」はその人の「自己責任」であって知ったことではないとするのは、道義的に正当とはいえないであろう。「運」「不運」は、他人と分かち合うことによって「偶然の専制」を和らげるべきではなかろうか。(p163~168)

 この辺りは、何となくわかるような気がする。戦後、新宗教が多くの人々に支持されたことや、大災害のあと、多くの人々が援助の手をさしのべたことを見ても理解できる。

 

なお、この本では、原子力発電所メルトダウンの危険性などについても書かれており、多重安全システムの必要性などに言及されている。この本が出版されたのが2010年9月であり、福島原発メルトダウンの半年前である。

 

Facebook 「ZEKKEI  Japan」より。

 

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偶然とは何か――その積極的意味 (岩波新書)

偶然とは何か――その積極的意味 (岩波新書)