ガラガラポン日記

複雑になってしまった問題を、一度ゼロにして、考え直してみる。

読書メモ『日本人へ』

塩野七生(しおの ななみ)さんの著書『日本人へ~危機からの脱出篇』(文春新書 2013年)を読み終えた。

切れ味の鋭い文章ですなあ。元気のいいおばちゃんに、ズバズバ指摘されている感じでした。イヤハヤ。

 

いくつか興味深い文章があったのですが、今回はその一つを取り上げてみたい。

「なぜ人々は、マスコミから離れるのか」という見出しの章です。日本もイタリアも似たような現象が見られるようで・・・。

 

日本でも、新聞や雑誌の経営が困難になっているという。ここイタリアでも同じで、新聞社は文学全集や古い映画のDVDを出したりしているが読者は離れる一方。雑誌も今や政治家からタレントまで網羅したゴシップで埋まっているが、こちらも講読者は減る一方である。テレビも番組は低俗化するばかりだが、それでも経営は苦しいという。(p40) 

 その理由を、塩野七生さんは次のように分析している。

テーマの取り上げかたが、卑しく下品に変わったからである。政治ニュースならば、政局については騒々しいくらいに論ずるのに、政治を真正面から取り上げた記事はほとんど見かけなくなった。大新聞の政治部の記者や政治評論家は、何をみているのかと思ってしまう。コメンテーターとしてテレビに始終顔を出す政治評論家も学者も、重要なことはさし措いて瑣末なことしか論じないという点では変わりない。低俗化したほうが、講読者は増え視聴率は上がると考えているのであろうか。(p41)

 たしかに。

新聞は読まないのでどんな記事が書かれているのか分からないが、テレビは明らかに低俗化していると思う。塩野さんがテレビで観るのは、「朝晩の時事ニュースとドキュメンタリーぐらい」というのも理解できる。私は、韓流ドラマ(時代劇)を付け加えたいが。

(メモ:「瑣末」は、「さまつ」というのか。知らなかった。)

 

ところがこの考え方こそが、人々を離してしまったのだ。なぜなら人間は、自分個人にならば卑しく下品なところはあると知っていても、そのようなことばかりを浴びせかけられる状態がつづくと、遅かれ早かれアレルギーを起こすものなのである。それもとくに、自分一人ではいかに努力してもできないこと、つまり国の政治、を託した人が対象であった場合はなおのことだ。(中略)

 

問題は、「何を取り上げるのか」よりも、「どう取りあげるか」なのである。(中略)

 

日本をどうするつもりか、という、根元的なことを知りたいと願っている読者や視聴者を離してしまうことになる。つまり、足許の砂が崩れつつあるのに自己満足にふけるのを止めないことこそが、人々のマスコミ離れの真因ではないかと思うのだ。(p41~44)

本当にその通り。今まで何かモヤモヤしていたものが、この言葉でスッキリした。もっと根元的なことを知りたいのだ。誰も心の中では、政治家がみんな聖人君子だとは思っていない。ある程度のことには目をつむってでも、もっと本質的なことを追求してほしいのだ。

 

 

 

 

 ↓Facebook 「花の写真館」さんより。
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