ガラガラポン日記

複雑になってしまった問題を、一度ゼロにして、考え直してみる。

読書メモ『人はなぜ物語を求めるのか』

『人はなぜ物語を求めるのか』(千野帽子(ちの・ぼうし) ちくまプリマー新書 2017年)を読んだ。

 

本書を簡略に説明している文章を探していたら、「あとがき」にあった。

人間は物語を必要としている、とよく言われます。(中略)

 

本書の主張は違います。人間は生きていると、二酸化炭素を作ってしまいます。そして人間は生きていると、ストーリーを合成してしまいます。人間は物語を聞く・読む以上に、ストーリーを自分で不可避的に合成してしまう。 というのが本書の主張なのです。(p219)

 

人は意識的にあるいは無意識のうちに、ストーリーを合成しているようだ。

「ストーリー」は人間の認知に組み込まれたひとつのフォーマット(認知形式)です。このこと自体は、ただの事実であり、いいことでも悪いことでもありません。

人間はストーリー形式にいろいろな恩恵を受けています。それなしには人間は生きられないと言ってもいいくらいです。(中略)

 

ストーリーが人を救うこともありますが、そのいっぽうで、僕、あるいはあなた、ひとりひとりの人間の個別の状況によっては、逆にストーリーが人を苦しめたりすることがあります(正確には、僕やあなたがストーリーを使って自分を救ったり、苦しめたりすることがある、というべきでしょう)。(p13)

 

本書のテーマは幅広いようだ。私が理解できるのはほんの一部だけ。それは、私自身の経験に基づく部分に限られている。

 

むかし、『共同幻想論』 という本に衝撃を受けた。

吉本は、国家とは共同の幻想であると説く。人間は、詩や文学を創るように、国家というフィクションを空想し、創造したのである。 (Wikipediaより。) 

それまで考えたこともなかった。「国家」というものは既にあって変わらない巨大な組織であると思っていた。それが「共同の幻想」であるという。

 

身近な家族の場合。

認知症の母親の様子を見ていて、人間というものは、自分の考えにこれだけ苦しめられるのかと驚いたことがある。母は、お金を盗られるという妄想にとりつかれ、自分で自分をがんじがらめにしてしまった。

 

私自身のことでいえば、満員の地下鉄に乗ると、自分が貧血で倒れるのではないかと不安になり、鼓動は早まり脂汗が出て速く目的地につかないかなあ、と必死の思いにとらわれたことがある。今で言えば「パニック障害」と言われるものだろうか。

 

共同幻想」→「妄想(イメージ)」→「パニック(不安)」という個人的な経験を踏まえて、本書の「ストーリー、物語」ということを読んでいくと、人間からマイナスな「物語」を外してあげたくなる。しかし、それは無理なようだ。

 

「物語」を「物語」として自覚できるようになることが、まず最初の一歩なんだろうか。

 

現実を、「物語」化せずに、ありのままに観ること。これもひとつの方法かもしれない。

 

「なぜ?」と問いかけた場合、「答えがない」ということも選択肢の一つとして残しておくようにしたい。

 

「物語」をポジティブに捉え、自由自在に操ることが出来れば、新たな生き方が現れてくるのかもしれない。