ガラガラポン日記

複雑になってしまった問題を、一度ゼロにして、考え直してみる。

「物語」〜特に「宗教」と「経済」

   個人的に思うのだが、「宗教」と「経済」は、「物語」の要素が大変多いのではないかと思っている。その「物語」をうっかり信じていた自分がいた。

 

最近、Facebookのともだちが投稿記事で紹介していた論文(※注1)に興味を引かれた。

 

そこで「宗教経済学」という分野があることを知った。

その中に、以下のような文章があった。論文筆者の意見という訳ではないが。

    個人は宗教行為のために費やされるコストである時間と財を、それによって得ることのできる利益(と本人が感じて満足するもの)である「死後の幸福」とのはかりにかけ、利益が最大になる宗教行為を選択するものであり、その選択は数学的な計算として、すなわち合理的選択として抽出することができる、というのが宗教経済学の基本的な発想ということになる。(p128)

勝手に突っ込んでみると。↓

 

(と本人が感じて満足するもの)という部分は、大事なところだ。あくまでも「本人」がであって、普遍的なものではないからだ。テレビの健康食品CMで、「あくまで個人の感想です」という言葉が入るのと似ている。

 

「死後の幸福」というのは、少し違うような気がする。一神教であればそう言えるかもしれないが。日本であれば、「浄土」という人もいるだろうが、多くは「目の前の幸福」の方ではないだろうか。

 

「合理的選択」というのは、当てはまらないような気がする。人間的な繋がりや私のように親が信仰していたからというような、非合理的な理由が多いように思う。(因みに、この論文に数式が出てくるが、宗教関係の論文で数式が登場したのを見たのは初めてなので大変驚いた。合理的ということを徹底すれば、数式で表現できる、ということかな。)

 

行動経済学」(※注2)という分野があるらしい。従来の経済学と異なり、人間は必ずしも合理的に行動、選択するわけではない、という主張らしい。入門書を2冊ほど読んでみたが、何となく理解できる程度。心理学の本を読んでいる感じだった。

 

心理学といえば、「合理化」という視点も参考になりそうだ。それが「宗教」や「経済」での「選択」を合理的なものと自分に納得させているのではないだろうか。

 

『物語の役割』(小川洋子 ちくまプリマー新書 2007年 )という本に以下のような文章があった。

物語は本を開いたときに、その本の中だけにあるのではなく、日常生活の中にいくらでもあるんじゃないかということです。

 

たとえば、非常に受け入れがたい困難な現物にぶつかったとき、人間はほとんど無意識のうちに自分の心の形に合うようにその現実をいろいろ変形させ、どうにかしてその現実を受け入れようとする。もうそこで一つの物語を作っているわけです。

あるいは現実を記憶していくときでも、ありのままに記憶するわけでは決してなく、やはり自分にとって嬉しいことはうんと膨らませて、悲しいことはうんと小さくしてというふうに、自分の記憶の形に似合うようなものに変えて、現実を物語にして自分の中に積み重ねていく。そういう意味でいえば、誰でも生きている限りは物語を必要としており、物語に助けられながら、どうにか現実との折り合いをつけているのです。(p22)

 たしかに「物語」にはそういう面もあると思う。しかし、中にはその「物語」を利用してくる人もいる。多くの人々が、ある「物語」を信じ、一部の人間は、それを知って利用するというパターンだ。あるいは、「物語」を作り、それを多くの人に信じさせるということだ。

 

特に「宗教」と「経済」には、要注意だ。

 

「物語」ということでいろいろ思いを巡らせている。自分でもよく分からない部分もあるが、何かが掴めたらいいなあ、と思っている。

 

 

 

 

 

 

※注1

www.jstage.jst.go.jp

 

※注2

brave-answer.jp

 

物語の役割 (ちくまプリマー新書)

物語の役割 (ちくまプリマー新書)