ガラガラポン日記

複雑になってしまった問題を、一度ゼロにして、考え直してみる。

読書メモ『心でっかちな日本人』

山岸俊男さんの『心でっかちな日本人〜集団主義文化という幻想』(ちくま文庫  2010年)という本を読了。

 

「心でっかち」という言葉がおもしろい。

「心でっかち」というのは、「頭でっかち」という言葉をもとにして筆者がつくった言葉です。「頭でっかち」というのは、誰でも知っているように、知識や理屈ばかりで行動が伴っていない状態を指す言葉です。(中略)

 

「心でっかち」というのは、知識と行動のバランスがとれていない「頭でっかち」のように、心と行動のバランスがとれなくなってしまっている状態です。心の持ち方さえ変えればすべての問題が解決される、と考える「精神主義」がその極端な例です。(中略)

 

筆者が本書でしようとしているのは、「日本文化」という神話のベールを一枚一枚丹念に剥ぎ取った「裸の現実」を見ることこそが、「何をどのように変えればよいのか」を知るために、私たちが避けて通ることのできない路である―――筆者はそう考えてこの本を書きました。(p5〜7)

 

わたしは、「頭でっかち」 と言われることが多いので、そういう時は反論できないことが多かったが、今度は「君は、心でっかちだね」と言い返してみようかな(笑)

 

「頭でっかち」でも「心でっかち」でもなく、バランスの問題なのかな?

 

 

ここで最後に指摘しておきたい点は、集団主義的行動が頻度依存的に維持されているということは、日本社会における集団主義文化がきわめて急速に変化する可能性を示唆しているという点です。文化が世代を通して安定している心の性質であると考えれば、その変化はゆっくりとしたものとなるはずです。これに対して、文化とは私たちが私たち自身の行動によって生み出している相補均衡だと考えれば、集団主義的行動をとる人々の比率の減少は限界質量を超えて、加速度的な変化を生み出す可能性があるからです。(p254)

 今、この時代、何か変化が起きつつあるのかもしれない。

 

本書の最後に、長谷川眞理子氏の解説が載っている。

本書のおもな主張を一言で表せば、人間の「心」というものの「本質主義」の否定だと言えるだろう。(中略)

 

では、本質論的ではない「心」の考え方とは、どんなものだろう?それは、人々の心なんて、そんなに一人一人本質的に違うものではない、そして、どんな社会システムの中にいるかで、同じ人間だって行動は大いに変わるだろう、という考えだ。(p262〜263

 

 テレビの旅番組などを見ると、世界各国の人々と私たち日本人は、同じ人間だと感じることが多い。違いがあるとすれば、社会システムの違いなのかな? 

 

心でっかちな日本人 ――集団主義文化という幻想 (ちくま文庫)

心でっかちな日本人 ――集団主義文化という幻想 (ちくま文庫)