ガラガラポン日記

複雑になってしまった問題を、一度ゼロにして、考え直してみる。

仏教雑感〜一切衆生

「一切衆生」という言葉は、個人的にはなじみが深い。 

 

  「一切」とは、すべてという意味らしい。  

衆生」という言葉には、「一切の生きとし生けるもの(生類)のこと」(Wikipedia)という意味らしい。

「一切衆生」というのは、この世に生を受けたすべての生き物、特に人間をいうとされる。「一切」と「衆生」とは、共に「すべて」という意味を持っている。同義語を重ねることによって「すべて」の意味を強めたとされる。

 

しかし、『仏教思想のゼロポイント』(魚川祐司 新潮社)を読んでいて驚いた。ブッダが、「梵天勧請」によって説法を決意したとき、「一切衆生」を対象とするのではなく、聞く耳を持つ一部の人に限られていた、ということである。

そこで梵天は、世の中には煩悩の汚れの生まれつき少ない衆生も存在するし、彼らは法を説けば理解するだろうと言ってゴータマ・ブッダへの説得を試みた。そして、そのような梵天の懇請を受けた彼は、さきほどふれたように、「衆生へのあわれみの心によって」、仏の眼(buddha-cakkhu)をもって世界と衆生を観察する。

(中略)

そして、そのように観察したゴータマ・ブッダは、ついに説法を決意して、「彼らに不死の門は開かれた」と、開教を宣言する。「彼らに(tesam.)」という言葉は文脈上、煩悩の汚れの少ない、機根(才能)のある者たちのことを指しているのは明らかだから、少なくともゴータマ・ブッダの仏教は、「一切衆生」を対象とするものではなく、あくまで語れば理解することのできる一部の者たちを対象とするものであったことが、ここで確認できることになる。(p168)

 

日本仏教、その中の「日蓮」の手紙(本物と後世の作が混ざっているらしいが) の中に、「一切衆生」という言葉は、282件検索された。(日蓮大聖人御書全集全文検索)

北伝仏教(大乗仏教)の流れの中で、いつのまにか「一切衆生」を対象とする、というのが、仏教の基本となっていたようだ。

 

個人的に思うのだが、「一切衆生」を対象とするのが 理想だが、実際には「理解することのできる一部の者たち」を対象とするのが現実的であろうと思う。それと共に、初期仏教の意味するものが、中国、日本へと伝わる中で、まさしく「壮大な伝言ゲーム」(植木雅俊)と化しているのには、改めて驚かされる。

 

 

 

仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か

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