ガラガラポン日記

複雑になってしまった問題を、一度ゼロにして、考え直してみる。

沈黙

私は「妥協」することが多い。好んでそうしているわけでもないのだが、他人と争うのが嫌で、ついつい安易な「妥協」に落ち着くことが多い。昔の人は、「和を以て貴っとしとなす」とか言ったそうだが、(その本来の意味は知らないが)  私にとっては「妥協」や「沈黙」が「和」を保つための方法の一つだと思っている。(情けないけど・・・)  だからといって、全く反応しないわけでもない。時には、「怒り心頭に発する」こともある。その時は勢いに任せて発言してしまうこともある。滅多にないけど・・・。

 

だから、自分の意見を堂々と主張し、議論によって更に内容を高めている人を見ると尊敬してしまう。

 

『日本仏教史』(末木文美士  新潮文庫  1996年)を再読していて、遠藤周作の『沈黙』という小説を引用した文章にであった。

仏教の土着と風化ということを考えるとき、最近しばしば思い浮かべるのが、遠藤周作の『沈黙』という小説です。『沈黙』は江戸時代初期の弾圧下のキリシタンを扱ったものですが、そこには宗教が土着するとはどういうことなのかという重い主題が展開され、仏教もその問いかけから逃れることができません。

『沈黙』の主人公ロドリゴに向かって、棄教した先輩の宣教師フェレイラはこう語りかけます。その箇所を引いてみましょう。

 

 

「二十年間、私は、布教してきた」フェレイラは感情のない声で同じ言葉を繰りかえしつづけた。

「知ったことはただこの国にはお前や私たちの宗教は所詮、根をおろさぬということだけだ」

「根をおろさぬのではありませぬ」司祭は首をふって大声で叫んだ。「根が切り取られたのです」

だがフェレイラは司祭の大声に顏さえあげず眼を伏せたきり、意志も感情もない人形のように、「この国は沼地だ。やがてお前にもわかるだろうな。この国は考えていたより、もっと怖ろしい沼地だった。どんな苗もその沼地に植えられれば、根が腐りはじめる。葉が黄ばみ枯れていく。我々はこの沼地に基督教という苗を植えてしまった」

 

しかし、その努力が実って信仰の広まった時期があったではないかというロドリゴの必死の問いかけに、フェレイラは追い討ちをかけるように言い放ちます。

 

「そうではない。この国の者たちがあの頃信じたものは我々の神ではない。彼らの神々だった。それを私たちは長い長い間知らず、日本人が基督教徒になったと思いこんでいた」

 

これはもちろんキリスト教の話です。しかし、仏教の場合、それと無関係と言い切ることができるでしょうか。そもそも仏教者から真剣にこのような問いが正面から発せられたことがあったでしょうか。仏教は日本に定着したといわれます。だが、その定着の中身は何だったのでしょうか。「怖ろしい沼地」であるこの国で、仏教の根は果たして腐らずに長らえることができたのでしょうか。(p362〜364)(『沈黙』からの引用文は、管理者により斜体・太字に装飾。)

 

学生時代に「土俗性と普遍性」をテーマの一つにした講演を聞いたことがある。そのとき以来、「土俗性と普遍性」が、私の頭の片隅に置かれて、時々思い出したように登場する。この本を読んでいて、またこのテーマが思い浮かんだ。

個人的には、「キリスト教」のみならず「仏教」でさえも、「怖ろしい沼地」で息も絶え絶えになっているのが実態ではなかろうか。「仏教の日本化」と言えばそれらしく聞こえるが、実は土俗性にまみれた結果ではないだろうか。

 

 

 

日本仏教史―思想史としてのアプローチ (新潮文庫)

日本仏教史―思想史としてのアプローチ (新潮文庫)