ガラガラポン日記

複雑になってしまった問題を、一度ゼロにして、考え直してみる。

苦をば苦と・・・

親戚で私と同じ年代の人が、病気で入院した。検査の結果、ガンであることがわかった。かなり進行しているようである。

 

私の周りには、創価学会の人が多い。一応、私も籍だけは置いているが・・・。創価学会は、日蓮の教えを根本としている。

 

先程の人もその家族も創価学会の会員である。病気ということで本人の苦しみはもちろんだが、同時に経済面での苦労も生じている。家族の精神的な苦しみもある。なんと声をかけたらよいのか迷った。

 

そこで、日蓮の言葉を借りて次のように呟いてみた。

「苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ」(日蓮御書創価学会版p1143)  悩み苦しみがあって、どうしても題目を唱えたいという人には、この言葉を贈りたいと思う。単なるご利益信仰ではない、題目を唱えてほしい。(@59CvSgSeujOqyUN)

 

日本仏教の特徴として、現世利益的な傾向が強いことが指摘されている。創価学会の会員の言動を見ているとたしかにその傾向が強いことが伺える。ある人も創価学会を評して、「他力本願的なお頼み信心に陥っている」と指摘していた。(この場合の他力本願は、依存的という一般的な意味で使っています。親鸞のような、一神教的な他力本願とは異なります。)

 

日蓮は、「苦をば苦とさとり」と言っている。多くの人は、「楽をば楽と」というのは理解できても、「苦」に対しては躊躇してしまうのではなかろうか。それをあえて「苦をば苦とさとり」というのは、一見酷な言い方のようだが、現実を「ありのままに見る」ということを教えているのではないだろうか。

 

ある人は、ツイッターで、「⭕⭕して〜とか、なったらいいなとかでなくて、悲しいなら悲しいと、辛いなら辛いと他人には言えないけれど、ここでは思いの丈を洗いざらい差し出して、吐き出すことで・・・」(@namonakicatさん:鍵アカさんなので引用を迷ったのですが・・・。私になかった視点なので勝手にお借りしました。ごめんなさい。)と呟いていた。たしかにそれもありだなと思う。

 

信仰というのは、結局「一人ぼっち」なのかもしれない。周りからの助言などがあったとしても最終的には自分で決めるしかないのだろう。そのときに必要なのは、自分のことをどれだけありのままに見つめることができるか、だろう。そのためには、一度洗いざらいにぶちまけるのもひとつの方法かもしれない。ある意味開き直ることが大事なのかな。

 

病気に対しては、勝とうとせず「共存する」姿勢がよいと何かで読んだ気がする。

 

私も同年代だから、いつどうなるか分からないわけで、決して他人事ではない。