自分のために。(宗教2世経験者の視点から)

 久しぶりに書いてみました。 (⁠ー⁠_⁠ー⁠゛⁠)

 

 NHKEテレの『心の時代〜宗教・人生 オモニの島 わたしの故郷〜映画監督 ヤン・ヨンヒ』を見た。

 その中で、ヤン・ヨンヒさんがつぶやいていた言葉が、心に残ったのでここにメモしておこうと思う。

 自分のうちから、一切の今後の人生において、「何かのために」「誰かのために」というのは、持ちたくないと思いましたね。
「会社のために」「組織のために」「国のために」・・・・・。

 これは、一番上のお兄さんを思い出す場面で、つぶやかれていた。




 お兄さんのことは、『兄〜かぞくのくに』(小学館 ヤン・ヨンヒ著 2012年)に詳しく書かれている。
 以下に、関連する部分を一部引用した。

 窓際に立ち、コノ兄のことを考えた。
 祖国のため。
 両親のため。
 考えてみれば、コノ兄の人生は常に「誰かのため」だった。「自分のため」に生きたことなんてない。
 じゃあ私は?
 小さい頃は「両親を悲しませないため」とがんばった。学校に勤めていた時は、「教え子のため」と思っていた。結婚していたときは、「世間体のため」と我慢した。「会社のため」「友達のため」「リーダーのため」・・・・・。

 もうやめる。

 私は今日、この瞬間から、「誰かのため」に生きることをやめる。自分のためだけに生きてやる。「自分のため」に生きられなかった兄たちの代わりに、私がわがままに生きてやる!

 誰も私の人生、責任なんてとってくれないのだ。おかしくなったコノ兄だって、誰からも責任を取ってもらえない。
 どう生きたって、後悔はする。だったら最初から、後悔するような生き方はやめよう。

 私は、私として生きる。
 もう我慢はしない。テドンガンでコノ兄が叫んだ翌朝、高麗ホテルの一室で、私は、新しい私となった。(p112〜114)

 

 誰かのためにではなく、自分のために生きる。
 この切り替えが素晴らしい。
 自分のために、が全て良いとは限らないが、他人のために生きて潰れてしまう人がいる場合は、自分の命を守るために必要な切り替えなのかもしれない。

 

 この切り替えに注目した私の個人的な要因としては、自分自身が小さい頃(小学校2〜3年生ぐらいかな?)から、創価学会という宗教団体の影響下で育ってきた経緯が影響している。ヤン・ヨンヒさん達は、私のような宗教ではないけれども、北朝鮮という国家や思想の影響下で育ってきたから、自分のために生きる、という決断がどれほど大変なことなのか、ということを実感として強く感じる。これは、今話題の「宗教2世」の問題とも共通する部分があると思っている。

 

 私自身は、今では創価学会から相当距離を置いている。創価学会の宗教・政治活動的な事もほとんど行っていない。

(配偶者や親戚などは、一般的な会員として活動しているので、私は籍だけまだ創価学会のまま。)

 若い頃は、創価学会の活動に参加していた時期もあったが、どうも組織というものに馴染めない部分があった。性格的なものかもしれない。勤行・唱題というのは、続けていたが、今考えると依存症的な部分が多かったように思う。(今は、勤行・唱題も行っていない。)

 

 私が創価学会から距離を置くようになったのは、いつ頃からか、なぜそうなったのか?

 私にもよくわからない。

 たぶんいろいろな要因が重なってこうなったのだと思う。

 

 68歳になった今、自分でいろいろ考え、分かる範囲で少しづつでも書き残しておきたいと思っている。

 

 いつ頃からかというと、2011年から数年が経過した頃ではないかと思う。2011年に会社を早期定年退職し、1998年にもらっていた「先輩からの手紙」(※一部抜粋⇩)を理解しようとして、仏教というものを基本から勉強し始めてから、少しづつ自分の中で考え方が変わってきたのだと思う。

 

 なぜ、そうなってきたのかを考えていたところ、このヤン・ヨンヒさんの「自分のために」という言葉が響いた。私自身の中で、知らず知らずのうちに、「ほかのため」ではなく「自分のため」に、という切り替えが行われていたのだと思う。

 これが、数多くある要因の中の、一つかな思う。

 

 

 

【参考】

※ 「先輩からの手紙」(1998年)より一部抜粋⇩

・・・。地方の学会員の信仰レベルがほとんど迷信に近いものであることを知ったこと等が、それに重なって結局生命の尊厳とかなんとかいっていても、それは単にスローガンだけで、全く内容が伴わないことを延々とやってきたのだ。人間革命といってもお題目だけで「自分自身を観つめること」をいくら教えても、ほとんどの人が、他力本願的お頼み信心に陥っていることをいやというほど思い知らされたことがきっかけでした。

 一体そのような「大人になれない他力本願的姿勢」は、どこに起因するのか。それは多くの人と様々に話し合ってみて「内外相対」の内道とは何かを全く理解してないことであろうと気づきました。
 「内道とは仏教のこと」というだけで「外道」に対しどこが勝れているのかが、よく解らない。

(中略)
  その不幸の原因とは「煩悩」をさすのだといった上で煩悩=見思惑について聞くと、(中略)誰も私の周辺では答えられません。 (中略)このような安易な理解でいますから、「苦・無常・無我」の 三法印についても、(中略)三法印が仏教の根幹中の根幹であるということさえも理解していません。

(中略)
 このような最も根本的なところが理解できていない上で、御本尊をまつり、勤行・唱題をしていたのでは、自然自然に御本尊を物神化して題目を呪文の如く不思議パワーの源の如く、それを唱えると奇跡が起こるかの如くに捉えてしまう他力本願的、迷信的信仰に陥ってしまうのだと思います。

 

 

文庫版もあった。⇩