「よくわからない」けどそれでいいじゃないか

前の記事で、このように書きました。

 私が創価学会から距離を置くようになったのは、いつ頃からか、なぜそうなったのか?

 私にもよくわからない。

 たぶんいろいろな要因が重なってこうなったのだと思う。

 実は、この結論に至るまでに数年を要したのです。

 

 はっきりとした答えを見つけようともがいてみたが、結局「よくわからない」という結論に至った。しかし、この「よくわからない」という結論は、私自身に精神的な安定感というか、ホッとした感じを与えてくれた。本当に不思議な気持ちだ。

 今までの教育や社会・会社の中であれば、「よくわからない」という言葉を発することは、(正直ではあるけれども)自分の無能を意味するに等しい、と思っていた。

「よくわからない」というのは、わたし自身の開き直りだったかもしれない。でもそれが逆に不思議な安定感を与えてくれた。

 

 そのようなときに、「ネガティブ・ケイパビリティ」という言葉を知って、自分自身がようやくたどり着いた言葉に、強力な後ろ盾を得たような気がした。

 

 「ネガティブ・ケイパビリティ」の意味は・・・

ネガティブ・ケイパビリティ (負の能力もしくは陰性能力)とは、「どうにも答えの出ない、どうにも対処しようのない事態に耐える能力」をさします。

 あるいは、「性急に証明や理由を求めずに、不確実さや不思議さ、懐疑の中にいることができる能力」を意味します。

 (『ネガティブ・ケイパビリティ』帚木蓬生著 朝日新聞出版 2017年 p3)

 

 わたし自身の先ほどの経験に当てはめてみると、少しだけ理解できる気がする。

 精神医学や終末期医療などの分野で使われている言葉のようだが、この不思議な精神の安定感というのは貴重だ。

 

 しかし、自分の経験から、宗教を信じている人にも同じようなことがいえるのではないだろうか? わたし自身、なぜ本尊という紙に向かって題目を唱えるのか、正直よく分からなかった。いろいろ調べてみたが分からなかった。「よくわからない」という言葉を「信じる」という言葉に置き換えて過ごしてきたが、どうしても疑念は払拭できなかった。これもある意味「ネガティブ・ケイパビリティ」だったのかも。個人的には、たしかに精神的な安定は得られたが、何かに依存する傾向が見られた。それが「他力本願的お頼み信心」につながったのかもしれない。

 

 

 

 

ネガティブ・ケイパビリティ」の反対は、「ポジティブ・ケイパビリティ」。

 

参考になります。↓

ポジティブ・ケイパビリティとネガティブ・ケイパビリティ|@GVチームランチ|Ai YOSHIDA|note

1787夜 『ネガティブ・ケイパビリティ』 帚木蓬生 − 松岡正剛の千夜千冊