ガラガラポン日記

複雑になってしまった問題を、一度ゼロにして、考え直してみる。

読書メモ『経済成長主義への訣別』

『経済成長主義への訣別』(佐伯啓思(さえき けいし) 新潮選書 2017年)という本を図書館から借りてきた。

 

本書では、「経済成長・成長主義」=「幸福」という人々の思い込みに「?」を投げかけている。

私が問いたいのは、経済成長、グローバル競争、技術革新などを推し進めることによって、人間はいっそう幸せになれる、という思い込みだ。もっと自由に、もっと便利に、もっと大きく、といった「成長主義」を問うことである。これはいかにも「近代社会」の先入観といってもよいが、近代を200年近くにもわたってやっておれば、この先入観も疑う余地のない当然のものとなってくる。しかし、それがいかに、われわれの「ふつう」を壊してゆくのか、そのことを本書で描きたかったのである。(p5)

 たしかに、ニュースで「成長」という言葉が出ると「安心」してしまう。

(念のため。「経済成長」そのものをやめる、というのではなく、「経済成長」を至上の価値とすることをやめるという意味で、「脱成長主義」である、と本書で述べられている。(p19))

 

ひとりの人間が、本人はそうと気付かずにある先入観にとらわれている、ということはいくらでもある。少し距離をとってみればその先入観はよくみえる。同じことは、集団についてもいえて、今日、「われわれ」はひとつの無意識の先入観にとらわれており、そのことをしかと意識できなくなっている。(p48)

 

このような「思い込み」、「先入観」というのは、実にやっかいな代物である。「経済成長」、「成長主義」ということばの持つ強力なイメージは、世の中を大きく支配しているように思われる。私自身も知らず知らずのうちに、「経済成長」という言葉をうのみにしていた。本書を読んで改めて気づかされた。

 

ではどうすれば、この自己暗示から覚醒できるのだろうか。ひとつの先入観=世界観からどのようにして脱出できるのか。答えは決して難しくはない。ただそれを本当に実行するには多大な困難を伴うであろうが。

 

要は価値観を転換することなのである。(p49)

と書いてあるけれども、価値観を転換することは、簡単な場合もあれば、実に難しく多大な困難を伴う場合もある。特に思想信条の類いなどは。「 価値観の転換」ということは、前提としていくつかの価値観があると知ることが必要であろう。(下の参考記事がいいね。)  他の価値観を最初から拒否・否定せずに、どんなものか見たり聞いたりすることが大事だと思う。その上で、自分自身の頭でいろいろと思いを巡らせてみることができれば、選択肢が増え、「価値観の転換」の可能性も高まるのではないだろうか。

 

 

参考記事:

www.huffingtonpost.jp

 

 

経済成長主義への訣別 (新潮選書)

経済成長主義への訣別 (新潮選書)

 

 

 

 

 

 

 

 

『バウッダ〔佛教〕』を読み始める。

中村元(なかむら はじめ)、三枝充悳(さえぐさ みつよし)さんの『バウッダ〔佛教〕』(講談社学術文庫 2009年 (原本は1987年))を読み始めている。今回で何回目だろうか。この本を購入したのは、2011年だった。

 

きっかけは、1998年にいただいたある先輩(先輩の名前は、赤羽秀世(あかはね ひでよ)氏である。あっ、書いてしまった。まっ、いっか。)からの手紙にこの本のことが書いてあったからだ。

 

(この手紙を私がいただいたのは、本当に偶然だと思う。赤羽さんの大きな人的ネットワークの外側で、右往左往していた私に向けて、たまたま大きなボールを投げてくれたのだと思う。内容からして私個人の手元に置いておくのはもったいないと思い、幾人かの友人には、手紙の原本コピーを渡してきた。その後、ネットを利用するようになってから、少しでも参考になればと思い、「先輩からの手紙」としてこのブログの最初に公表した経緯がある。)

 

gsg48566.hatenablog.com

 

 

gsg48566.hatenablog.com

 

この手紙を読んで、当時の私はほとんど理解できなかった。返事を書くことも出来ぬまま時が過ぎていった。この手紙をいただいた年、先輩は肺結核のため亡くなってしまった。とうとう返事を書く事ができなかったことを後悔している。

 

2011年、会社を早期退職し、先輩からの手紙を理解しようと勉強を始めた。その最初に購入したのがこの本である。手紙に書いてあった仏教の基本原理である「三法印」という言葉さえよく理解していなかった私である。何と情けない。

 

物事を考えるということについては、赤羽さんの以下の言葉が大変参考になった。

物事を考えるということは、完全に自立した個性の為しうる行為である。

※物事を考えるには、あらゆる先入観や捉われから解放されるということが前作業として必要とされる。

※そして、考え始めた時には、思考停止の領域は、一切設けてはならない。
言い換えれば権威や秩序などという現実社会の規範は持ち込んではならないし、タブー(禁忌)なども設けてはならない。
ありとあらゆることが、思考実験の対象となるということを覚悟しておかねばならない。

「考えるということ」『増補遺稿集』より - えぞしろくまのつぶやき )

 

来年は、2018年。手紙をいただいてから20年。遅ればせながら何とか自分の思うところをまとめてゆきたいと思っている。2011年から勉強してきたが、まだまだであるけれども、今の理解している範囲で、少しずつまとめて行こうと思っている。

 

 

バウッダ[佛教] (講談社学術文庫)

バウッダ[佛教] (講談社学術文庫)

 

 

読書メモ『いま〈日本〉を考えるということ』〜その2

図書館から『いま〈日本〉を考えるということ』という本を借りてきた。たしか一度読んだことがあるような・・・。帰って来て調べたら、去年の今ごろ、読んだ本だった。やっぱり(^_^;)    記事にも書いていた(>_<)    

という訳で、再読。

 

建築家 山本理顕(やまもと りけん)、社会学大澤真幸(おおさわ まさち)、憲法学者 木村草太(きむら そうた)という異色の組み合わせ。

 

断種法は生殖のプロセスに国家が介入することによって、国民の健康を管理するという思想である。・・・すべての国民が、その「1住宅=1家族」という形式の住宅に住むことによって、家族の健康さらには、国民全体の健康管理がより徹底されると考えられたのである。・・・つまり、「1住宅=1家族」という考え方の根底には「生政治」という視点で見る限り、「断種法」と極めて近い思想が潜んでいたのである。(p118〜119)(山本理顕)

たしかに、今までの世の中の流れを見ると「1住宅=1家族」のイメージですなあ。しかし、高齢化やおひとりさまの増加が見込まれるこれからの時代においては、当然修正が行われるだろう。すでにシェアハウスやサービス付き高齢者住宅がその数を増やしている。

 

山本理顕氏は、夫婦別姓を巡っての最高裁判決について以下のように述べている。

鼎談で木村草太が述べているように、法的には、法律婚で結びついた夫婦そして家族が社会を構成する基礎的な単位なのである。社会とはこの場合国家である。国家行政(官僚制的行政)の側にとっては、国家の基礎単位は個人ではなく家族である。それを前提に国家を運営しているのである。そこでは夫婦別姓は決して認められない。・・・夫婦別姓問題は確かにどっちつかずの微妙な議論である。しかし、それは一方で国家を構成する基礎単位は家族なのか、それとも個人なのか、という議論である。・・・いまの日本は細分化された官僚機構によって隅々まで官僚制的に統治された国家なのである。それは、〝公〟がそのまま〝官〟になってしまっているような統治機構である。・・・自民党の作成した2012年改憲草案には、「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は互いに助け合わなければならない。(24条)」と新たな条項が書き加えられている。(p124〜126)(山本理顕)

 自民党の発想の基には、この「家族」というのがあったのか。何か違和感を感じていたのだが・・・。

民法上の扶養義務というのも、いまだに健在ですからなあ。生活保護や介護に大きく影響している。

 

さらに、山本理顕氏は、「地域社会圏」という考え方を提唱している。

 

わたしの住む地域も、高齢化が進み、老夫婦二人、あるいは高齢者一人の家が多くなっている。毎日の買い物や冬季の除雪などの不安な部分も多くなっている。病気や災害の場合にどうするか、という大きな問題も抱えている。

 

氏は、専用住宅を職住一体の住宅に変えることを提案している。一つ一つの「家」が孤立しないように、周りとのコミュニケーションをとれるようにするのだ。現実的な可能性を考えた場合、難しいのではないかと思うのだが、町を見渡してみると、いくつかそのような「家」が増えてきたことに気づかされる。食事の提供やパンの製造販売、ハンドメイドの作品展示販売などがある。相方にこの話をしたところ、近所の友人2〜3人で気軽におしゃべりすることが難しい、とのこと。理由を聞くと、それぞれの夫が定年後、家にいることが多いため、気軽に家によることができなくなったらしい。近所に気軽に集まれるスペースがあればいいなあ、という希望をつぶやいていた。

 

町家とは職住一体の住宅であった。つい最近までこうした職住一体の住宅が都市住宅の主流だったのである。つい最近というのは、「1住宅=1家族」という住宅の形式が大量に供給されるようになるその前である。実際、第二次世界大戦前の日本では職住一体の住宅に多くの人びとが住んでいたのである。(p132〜133)(山本理顕)

 むかしは良かった、というわけではないが、現状を打開するひとつの方法であると思う。

自分だったら、地域に何が提供できるだろうか? 家を開放して奥様方におしゃべりの場所を提供することぐらいかな?(その間、私は図書館に避難しょう。)

 

 

いま、〈日本〉を考えるということ (河出ブックス)
 

 

 ↓Facebook 「日本の美しい村」より。

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gsg48566.hatenablog.com

 

 

 

読書メモ『こころの免疫学』

ウンチが水に浮かない。 🚾🚾🚾🚾🚾

 

腸内環境がよくないのかなあ。

 

私たちの腸内細菌の数が最近、急激に減少している。このことを的確に示すのが糞便の量である。糞便のおよそ半分が腸内細菌(生きているものと死んだもの両方)なので、糞便の量を調べれば、腸内細菌の数を推測できるのだが、その糞便の量が急激に減少しているのである。

(中略)

日本人の糞便の量は戦後60年間で大きな変化を遂げた。日本人の食生活が欧米化した結果、食物繊維の摂取量が極端に少なくなったためである。

(中略)

食物繊維の権威である、辻啓介・兵庫県立大学名誉教授は、「糞便は水に浮かぶのがよい」と述べている。「食物繊維が多ければ、ガスが発生するから浮かびます。そして、数分後に泡を残して沈む」そうだ。

糞便の比重は、食物繊維を多く摂っている場合、およそ1.045から1.067だとされている。この比重ならば、当然水に沈むはずなのだが、実際は、ガスが発生して最初は浮くのであろう。現代日本人で、このような理想的な糞便を排出している人がいったいどれだけいるだろうか。

戦後の日本人の糞便量が、少しずつ減っていったのと反比例して、日本人に少しずつ増えてきたのが、花粉症をはじめとするアレルギー性疾患と「こころの病」なのである。

(p51〜52)

 これは、『こころの免疫学』(藤田紘一郎 新潮選書 2011年)からの引用である。この本を読んで、(ウンチが水に浮かぶのは「理想」としても、)とりあえずは腸内環境を改善したいなあ、と痛切に感じた。年1回の健康診断では、以前から、悪玉コレステロールの値が基準を超えている。何とかしたいと思いながら、結局何もせずにきてしまった。でもこの辺で心構えを改めて、食生活の改善に努めていこうかとおもう。(何日つづくかな?)

 

先日のNHKの番組を見ていても、「体内ネットワーク」ということが取り上げられていた。最近の研究では、脳だけでなく、脂肪や筋肉からもさまざまなメッセージ物質がでて、脳を含む身体全体に指令を出していることがわかってきたらしい。

 

これからは、「ネットワークの時代」だ。ナンテネ。

 

 

 

 

こころの免疫学 (新潮選書)

こころの免疫学 (新潮選書)

 

 ↓Facebook 「東京カメラ部」より。

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読書メモ『原発事故はなぜくりかえすのか』

『プロメテウスの罠 2』を読んで、高木仁三郎さんという名前とその人の書いた『原発事故はなぜくりかえすのか』( 岩波新書 2000年)という本を知った。

 

その本は、1999年に起きたJCO臨海事故をきっかけとして、ガン闘病中の筆者が、文字通り最後の力をふりしぼって書かれた本だった。

私事で恐縮ですが、私は今、がんの闘病中で、さまざまな苦しみに襲われています。しかし、そんな私にペンをとらせざるを得ないようなものが、今の状況の中にあるのです。

したがって、この本では細かい技術論をいろいろ議論するのではなく、根本にある問題は何なのか、日本人は原子力技術というものをどう受けとめているのか、それにどう接しているのか、さらには原子力技術だけでなく、日本の企業や日本人個人個人が技術というものをどのように考え、安全についてどのように思っているのか、生き方の中でそれらの問題がどのように処理されようとしているのか、というようなことを論じようと思います。これは日本人の文化論にもかかわる問題かと思います。(p5〜6)

 福島原発事故から6年以上たった現在も、原子力をとりまく状況は、本書で指摘された課題をクリアしているとは思えない。原子力に絡む重層的な構造は、いささかも揺らいでいないことに驚くばかりだ。

 

一つの事例として、「公益性」を挙げている。高木氏が代表をしていた「原子力資料情報室」が、法人申請をしたときのこと。(当時(1994年頃)は、NPO法がなかったので、科学技術庁に法人申請した。現在は、NPO法人として活動中。)

このときに私が痛感したのは、この役人たちと我われとの間には公益性ということについての認識に大きなギャップがあるということです。役人たちは、公益性を定義するのは国家の側であり、国家の役人がやっていることが公益に則することであって、民間の人間がこれに異を唱えるのは公益に反するということを、ほとんど無前提に言うのです。

(中略)

要するに、国が原発推進ということを言っているときに、それに賛成しない、原発推進と言わないのはけしからん、そのような批判勢力に公益性はない、こういう論理なのです。

(中略)

人びとが求めるものは何かというところから出発するのではなく、国家の法律の中にどう定義されているか、それを守る機関はどういう組織であるのかから出発して、その組織に従うことが公益であるみたいな、頭からの公益論ができてしまっている。(p119〜121)

 「原子力資料情報室」というのは、脱原発を表明しているため、批判派と見なされていたようです。しかし、原子力行政を批判することによって、より健全なエネルギー政策が提言できるのではないかという主張をして、科学技術庁も認めるようになったようですが、「公益性」という基本的なところで大きな意識のずれがあったようです。私見ですが、この組織に従うべきという「頭からの公益論」は、行政だけでなく、企業や宗教団体などの大きな組織にも見られるように思います。

 

最後に、高木氏が自身の「偲ぶ会」へメッセージを書き残していました。謂わば遺言のようなものです。それが本書の最後に載っています。一部だけ引用させていただきます。

 

残念ながら、原子力最後の日は見ることができず、私の方が先に逝かねばならなくなりましたが、せめて「プルトニウム最後の日」くらいは、目にしたかったです。でも、それはもう時間の問題でしょう。すでにあらゆる事実が、私たちの主張が正しかったことを示しています。なお、楽観できないのは、この末期症状の中で、巨大な事故や不正が原子力の世界を襲う危険でしょう。(p182〜183)

 

このメッセージが書かれたのは、2000年ですが、その11年後に福島原発事故が発生してしまいました。そしてプルトニウムは、現在では47トンも存在するのです。

 

プロメテウスの罠 2

プロメテウスの罠 2

 

 

 

原発事故はなぜくりかえすのか (岩波新書)

原発事故はなぜくりかえすのか (岩波新書)

 

 

Facebook 「ZEKKEIJapan」より。
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カリール・ジブランの訳詞

タイトルに引かれて、『よく生きる智慧』(柳澤桂子 小学館 2008年)という本を図書館から借りてきた。てっきり、随筆集かと思ったら、最初の方だけが随筆で、そのあとはほとんど、カリール・ジブランの『預言者』という詩集の訳詞だった。

だれ? カリール・ジブラン?知らんがな。

(何でもこの『預言者』という本は、全世界で二千万人が読んだ大ベストセラーだそうです。全く知らなかった。検索してみると、カリール・ジブランというのは、英語読みらしい。Wikipediaでは、ハリール・ジブラーンと表記されていた。)

 

その訳詞の中から、一つの詩を引用させていただきます。

 

【死について】

 

あなた方は、死の秘密を知りたがる。

だが生そのもののなかにそれを探し求めなければ、

どのようにして死について知ることができるだろうか?

夜でも目が見えるのに昼間は目の見えないふくろうには、

光の謎を解くことはできない。

ほんとうに死の魂を見たいのなら、

生きている肉体をよく見てごらんなさい。

なぜなら、ちょうど川と海がひとつながりであるように、

生と死はひとつだから。

 

(中略)

 

死ぬということは風のなかに裸で立ち、

太陽のなかに溶け込んでしまうということではないのか?

呼吸が止まることは、

休みない潮の満ち引きから呼吸を解放してやることでしかなく、

呼吸は空へと昇り広がって、誰にも邪魔されることなく、

神を探し求められることではないだろうか?

あなた方がこころから歌えるのは、

沈黙の川の水を飲んだときだけだ。

登りはじめることができるのは、

山の頂上にたどり着いたときだ。

そしてあなた方の手足が大地にもどったときにはじめて、

ほんとうに踊ることができるのだ。

(p152〜154)

 

 「死」などについての質問に、ブッダは、沈黙で答えたとされる。いわゆる「無記」ということだ。それと比較すると、この詩は、ブッダと主旨は似ているが、より親切にやさしく答えてくれているように思われる。

 

よく生きる智慧~完全新訳版『預言者』

よく生きる智慧~完全新訳版『預言者』

 

 

 ↓Facebook「花の写真館」より。

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長田弘さんの詩、二篇

長田弘(おさだ  ひろし)さんという詩人を最近知った。

 

むかし、「詩」は、天賦の才がないと書けないのだ、と聞いてから、何となく「詩」とは縁遠くなっていた。最近、『「しないこと」リストのすすめ』を読んで、そこに長田弘さんの詩が引用されていた。それに刺激されて、図書館から、氏の本を数冊借りてきた。その中の『詩の樹の下で』(長田弘 みすず書房  2011年11月)、『なつかしい時間』(長田弘 岩波新書 2013年)から、詩二篇を引用させていただきます。

「詩」って、いいね。

 

【冬の日、樹の下で】

 

あらゆるものには距離があるのだ。あらゆるものは距離を生きているのだ。

そして、あらゆるものとのあいだの距離を測りながら、人間はいつも考えているのだ。幸福というのは何だろうと。幸福を定義してきたものは、いつのときでも距離だったからだ。

移ってゆく日差しとの距離。小さな花々との距離。川との距離。丘との距離。

生まれた土地との距離。

海との距離。砂との距離。潮の匂いとの距離。遠い国の、遠い街の、遠い記憶との距離。亡き人との距離。

星との距離。夜啼く鳥との距離。森との距離。

素晴らしく晴れわたった、冬の或る日のこと。

葉という葉を殺ぎ落として立っている大きな樹が、樹の下で、幸福について考えていた一人の小さな人間に話しかけた。

何もないんだ。雲一つない。近くも遠くもないんだ。

無が深まってゆくだけなんだ、うつくしい冬の、窮まりない碧空は。

幸福? 人間だけだ。幸福というものを必要とするのは。

 

(『詩の樹の下で』p82〜83)

 

 【イツカ、向コウデ】

 

人生は長いと、ずっと思っていた。

間違っていた。おどろくほど短かった。

きみは、そのことに気づいていたか?

 

なせばなると、ずっと思っていた。

間違っていた。なしとげたものなんかない。

きみは、そのことに気づいていたか?

 

わかってくれるはずと、思っていた。

間違っていた。誰も何もわかってくれない。

きみは、そのことに気づいていたか?

 

ほんとうは、新しい定義が必要だったのだ。

生きること、楽しむこと、そして歳をとることの。

きみは、そのことに気づいていたか?

 

まっすぐに生きるべきだと、思っていた。

間違っていた。ひとは曲がった木のように生きる。

きみは、そのことに気づいていたか?

 

サヨウナラ、友ヨ、イツカ、向コウデ会オウ。

(詩集『死者の贈り物』みすず書房)

(『なつかしい時間』p225〜226)

 

たまたま引用した写真の樹(↓)が、おもいっきり曲がっているのは、偶然です。(笑)

 

詩の樹の下で

詩の樹の下で

 

 

 

なつかしい時間 (岩波新書)

なつかしい時間 (岩波新書)

 

 ↓Facebook 「ZEKKEIJapan」より。
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