ガラガラポン日記

複雑になってしまった問題を、一度ゼロにして、考え直してみる。

読書メモ『戦争にチャンスを与えよ』

以前から読みたいと思っていた。図書館でようやく借りることができた。

著者は、エドワード・ルトワック。本書著者の紹介記事には、「戦略家、歴史家、経済学者、国防アドバイザー・・・」などと書かれている。一筋縄ではいかない雰囲気がある。

 

この本は、第一、二章で論文「戦争にチャンス与えよ」について書かれており、その後は、この本の訳者が聞き手となって、日本を取り巻く外交・軍事的課題についてその解決策を聞き出している。

 

本のタイトルからイメージしていたものとは、少し違うなあ。

 

最も興味深かったのは、「北朝鮮論」です。

私は戦略家であり、政治家ではない。ましてや教師や牧師でもない。倫理道徳の価値観の教育は専門外だ。したがって、私が日本政府に対して言えるのは、「何もしないのが最悪の選択肢で、以下の選択肢のうちの一つを実行せよ」ということぐらいである。(p111)

 

第一の方策は、「北朝鮮に降服する」というものだ。

北朝鮮政府が真に何を望んでいるのかを聞き出し、経済制裁をすべて解除する。・・・

(中略)

次の方策は、「北朝鮮を攻撃する」というものだ。しかもこれは、先制攻撃でなければならない。・・・

(中略)

さらには「抑止」も一つの選択肢となろう。「抑止」としては、日本が1000キロの射程の弾道ミサイルを持ち・・・

(中略)

最後の選択肢としては、「防衛」がある。これは、ミサイル防衛によるものだが、どのシステムも完璧ではない。・・・ (p112~118)

「降服」(もしくは「宥和」)というのは意外でしたが、人的損害が無いという点では極めて現実的かもしれない。

 

この章で著者が最も警告していたことがある。それは、「何もしないこと」、「まあ大丈夫だろう」という態度だ。

人々は、平時には、脅威を深刻なものとして考えられないものだ。平時に平和に暮らしていれば、誰かの脅威に晒されていても、空は青いし、何かが起こっているようには思えない。友人との飲み会に遅れないことの方が重要で、脅威に対して何の備えもしない。

つまり、脅威に対して降服するわけでも、「先制攻撃を仕掛ける」と相手を脅すわけでもない。そのように何もしないことで、戦争は始まってしまうのである。

平時には、脅威が眼前にあっても、われわれは、「まあ大丈夫だろう」と考えてしまう。脅威が存在するのに、降服しようとは思わず、相手と真剣に交渉して敵が何を欲しているのかを知ろうともせず、攻撃を防ぐための方策を練ろうとも思わない。だからこそ、平和から戦争が生まれてしまうのである。(中略)

平和は戦争につながる。なぜなら平和は、脅威に対して不注意で緩んだ態度を人々にもたらし、脅威が増大しても、それを無視する方向に関心を向けさせるからだ。日本にとって、その典型が北朝鮮問題だ。(p109~110)(太字は管理者が。)

 

 これは、耳が痛い。

 

逆説的な表現が好みのようだ。「平和は戦争につながる」・・・そういうことは考えたこともなかった。

 

戦争にチャンスを与えよ (文春新書)

戦争にチャンスを与えよ (文春新書)

 

 

 

 ↓Facebook 「花の写真館」より。

 
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読書メモ『二酸化炭素温暖化説の崩壊』

二酸化炭素温暖化説の崩壊』の著者は「広瀬隆」さんです。この方は、原発反対だけかと思っていたが、そうではなかった。

 

地球温暖化」というのは、たびたび聞かれる言葉で、なじみが深い。温暖化の元凶は、てっきり「二酸化炭素(CO2)」だと思っていた。しかし、本書の最初の部分を読んだだけで、その考えが、ガラガラと音をたてて崩れていくのを感じる。イヤハヤ。

 

今の人類は、NHKを筆頭とするテレビ番組、テレビコマーシャルが示す通り、CO2を減らせば環境を守れるという幼稚園児レベルの知能しかない。ヒートアイランド原発放射能災害、発電所の温排水、砂漠化、野生生物危機、大気汚染、水質汚染酸性雨熱帯雨林の破壊、遺伝子組み換え食品、環境ホルモン食品添加物、農薬、ダイオキシン汚染、増え続けるゴミ、大地震の恐怖、戦争など、ありとあらゆる環境破壊と毒物生産を放任して、すべて無実のCO2にその罪をなすりつけ、人類が大規模な環境破壊に踏み出し始めた。(p30)

 厳しい口調ではあるが、ある意味当たっていると思う。

 

過去45万年間という長大な気温の変化を示した図が、本書に表示されていた。↓ (p85)



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これを見ると、気温は、温暖な時期と寒冷な時期を繰り返しており、今は、温暖な時期に突入していると思われ、気温の上昇は想定内ということになる。

現在論じているのは100年に1℃にもならない気温上昇だが、過去には、氷河期と温暖期がこのようにたびたび訪れて、その気温差は12℃もあるのだ。ジャワ原人北京原人の子孫も、この激変の時代を生き抜いてきたのだから、地球温暖化の旗を振りかざして「人類が滅亡する」と叫び回る人たちに、「これは自然現象なのだからあきらめなさい。ほかにもっと深刻な問題があるのですよ」と言いたげだ。(p86)

 

また、地球温暖化の原因とされる「CO2」については、

現在のところ、温室効果ガスの寄与率には、科学者によって諸説あるので、断定はできないが、水蒸気の寄与率は、最小の説でも60%であり、最大の説でも95%である。この「水蒸気を除いた場合」には、IPCC第四次報告書からの数字を読み取ると、CO2―――60%、メタン―――20%、フロン類―――14%、N2O(一酸化窒素)―――6%ぐらいと推定されている。つまり、現在の温暖化で議論されてきたのは、なぜか「水蒸気を除いた」この四つだけで、とりわけCO2だけに話が集中していること自体が、おかしいのである。(p122~123)

水蒸気、というのは意外でしたが、考えてみれば地球の表面の大部分は「海」なわけで、そこから発生する大量の水蒸気が影響するというのは、自然なことなのかもしれません。

 

 

二酸化炭素温暖化説の崩壊 (集英社新書)

二酸化炭素温暖化説の崩壊 (集英社新書)

 

 

正しく知る地球温暖化―誤った地球温暖化論に惑わされないために

正しく知る地球温暖化―誤った地球温暖化論に惑わされないために

 

 

 ↓Facebook「花の写真館」より。


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読書メモ『国家の品格』

国家の品格』(藤原正彦 新潮新書  2005年)。

たびたび他の本やブログで目にしたタイトルなので、どんなものかと思い図書館から借りてきた。一応読了したが、微妙な感じ。一部同意できるところもあるけど、どこかすれ違う部分もある。

この本を読む前に、『(日本人)』という本を読んでいたので、新渡戸稲造の『武士道』については、全面的に同意できない部分もあった。

 

とりあえず、同意できる部分について書いてみます。

 

本書の目次には、こう書かれていました。

第三章  自由、平等、民主主義を疑う 

自由と平等の概念は欧米が作り上げた「フィクション」である。民主主義の前提条件、「成熟した国民」は永遠に存在しない。欧米社会の前提を根底から問う。

そして、第三章の小見出しは次のようなものです。 

欧米人の「論理の出発点」 

「自由」という概念

欧米が作り上げた「フィクション」

大思想家ロックの無責任発言

カルヴァン主義と資本主義

ジェファーソンの偽善

民主主義は素晴らしいのか

国民が戦争を望む

民主国家がヒットラーを生んだ

日本も民主国家だった

マスコミが第一権力に

国策捜査

国民は永遠に成熟しない

「真のエリート」が必要

官僚は真のエリートにあらず

エリートを養成している欧米

「平等」もフィクション

「平等」ではなく「惻隠」を

論理だけではもたない

自由と平等は両立しない

少し引用が長くなってしまいました。この第三章については、同意できる部分が多いです。

 

本書の著者は、エーリッヒ・フロムの言葉を引用しています。

エーリッヒ・フロムは、『自由からの逃走』で、自由と民主主義の中からヒットラーが台頭した理由を心理学的にこう分析しています。「自由とは面倒なものである。始終あれこれ自分で考え、多くの選択肢の中から一つを選ぶという作業をしなければならないからである。これが嵩ずると次第に誰かに物事を決めてもらいたくなる。これが独裁者につながる。」(p78)

 自分で考える、というのは難しい。他の人が、異なる視点から見事な考えを述べているのを見ると、「こりゃ、(わたしは)ダメだ(^_^;)」と思ってしまう。そういうことが度重なると、もう自分で考えることを放棄したくなる。ある程度、自分で訓練しないと、「自分で考え、多くの選択肢の中から一つを選ぶ」という作業は困難と思う。原因を考えると、学校教育にも一因があるのかな?とも思ってしまう。

 

ついつい自分で考えることをせず、テレビやネットの意見に、飛びついてしまう。気をつけねば。

 

国家の品格 (新潮新書)

国家の品格 (新潮新書)

 

 

 

 

(日本人)

(日本人)

 

 

 

Facebook「花の写真館」より。

 

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読書メモ『「存在論的ひきこもり」論』

 図書館本『「存在論的ひきこもり」論〜わたしは「私」のためにひきこもる』(芹沢俊介雲母書房 2010年)読了。

「ひきこもり」と言えば、マイナスなイメージしか思いつかない。そんな私の固定観念を見事に打ち破ってくれた本だ。

「社会的ひきこもり」論から「存在論的ひきこもり」論への転換、これがこの本のテーマです。

次のように言ってもいいかもしれません。ここでのもくろみは、これまで引きこもっている人たちに向けられてきた、そしていまも向けられている否定的なまなざしを、肯定的なそれへ転換することである、と。(p8)

 

    はじめに否定的なまなざし、すなわち否定性から肯定的なまなざし、すなわち肯定性への転換と記しました。ここでいう肯定性とは受けとめです。受けとめの基本は、引きこもる本人・当事者を優先するということです。あえて言葉にすれば次のようになるでしょう。

 

「わたしは、あなたがいまそのようにあること、そのようにしか存在し得ないことを承認する。そして、たとえ引きこもることについての見解があなたと異なろうと、あなた自身の意欲にもとづかないかぎり、そのようなあなたの現実を修正するよう要求したり、強制したりすることはしない。あなたのいま・ここにある現実をまるごと尊重する」(p12〜13)

 

存在論的ひきこもり」の定義?

①引きこもることは、本人にとって切実な意味と動機をもった一連の行為、すなわちプロセスのある出来事であるということ。

 

②それゆえ、引きこもるという行為はそれがなくては本人が本人でなくなってしまう、そのような経験であるということ。

 

③したがって、引きこもるという経験は、本人の人生上の一時期を構成する不可避的、ないし必然的な一コマとして位置づけられること。

 

④それゆえ、引きこもることは捨てるべき不毛な否定的経験などではなく、逆に人生の次のステップへ進むための大切な基盤となりうるということ。(p48)

 

存在論的ひきこもり」という新しい概念を提起したいと考えたもう一つの理由があります。・・・初発における社会関係からの撤退、言い換えれば「社会的自己」の放棄は、「存在論的自己」がこれ以上傷つくのを防衛しようととった行動である、という視点を打ち出したかったからです。したがって、「社会的自己」の回復には、傷ついた「存在論的自己」の回復が先行しなければならない、これが「存在論的ひきこもり」論のメインテーマということになります。(p49)

 

 現実は様々である。本当にきびしい状況もある。攻撃的になることもある。それを止める家族の精神的な疲労は筆舌に尽くしがたいものがある。なんとか事なきを得たとしても、家族の心配は尽きない。それらの諸々を踏まえた上で、わたしはこの「存在論的ひきこもり」論に賛成したいと思う。今まで、否定的に見てきたことを反省したい。まだまだ「存在論的ひきこもり」論が身に付いていないが、ひきこもりの人たちの現実をありのままに受けとめようと思う。

 

(「ひきこもり」という言葉は、マイナスイメージを連想してしまうので、何か別の言葉で表現できればいいなあと思う。)

 

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「存在論的ひきこもり」論―わたしは「私」のために引きこもる

「存在論的ひきこもり」論―わたしは「私」のために引きこもる

 

 

パインアメ

先日、スーパーで、「パインアメ」を買った。懐かしいな、と思いつつ食べた。

 

パイン パインアメ 120g

パイン パインアメ 120g

 

 

フト思い付いて、ネットで「パインアメ」を検索してみた。

 

パインアメ」は、誕生してから、60有余年と会社のHPに書いてあった。

パインアメの秘密 - パイン株式会社

最初(昭和26年)は、穴がなかったそうです。後になって(昭和28年)、現在の穴あけの形が出来上がったそうです。

 

上記会社のHPには↓

パインアメを開発していた当時の日本は、戦後の傷跡が残っており、生のパイナップルはもちろん缶詰でさえも高級食品でした。そんな時"このパイン缶の美味しさをみんなが手軽に味わうことができたらどんなにすばらしいだろう"との思いからパインアメが誕生したのです。

戦前は、台湾でパイナップルが生産されていたようで、日本本土にも缶詰として運び込まれていたと想像される。

【参考】

パイナップルが紡いだ沖台関係 | 毎日新聞出版

 

パインアメの歌「キイロイアメノウタ」もある。


Nj feat. メロディー・チューバック「キイロイアメノウタ」

 

 普段、何気なく手にしている商品にも、意外な面が隠れているので驚いた。

読書メモ『敗北を抱きしめて(下)』

『敗北を抱きしめて〜第二次大戦後の日本人』の翻訳本は、上下2冊だが、上巻の方は、敗戦直後の日本の庶民の記述が大部分なので、下巻を中心に書いてみた。(なお、増補版も出ているようだ。)

 

下巻最初の章のタイトルは、「くさびを打ち込む」。

戦争の後半には、OSSなどの諜報機関と同様、マッカーサー司令部も、天皇が日本の降伏だけでなく戦後の変革の鍵も握っていると考えていた。フェラーズと部下たちの表現によれば、「軍国主義者のギャングたち」は日本人をだましただけでなく、聖なる君主も裏切ったのだと日本人を説得し、それによって軍部と天皇(およびその臣民)とのあいだに「くさびを打ち込む drive a wedge」ことが重要なのであった。日本帝国は天皇の名において、天皇の権威の下に、ほとんど20年にわたる天皇の積極的協力をえて諸政策を推し進めてきた。ところが要するに西側の宣伝担当者達は、そうした日本帝国のさまざまな国策から天皇を切り離し、今や天皇の新しいイメージを創り出す作業に加担しようとしていたのである。(p9〜10)(太字は管理者による)

この「くさびを打ち込む」作戦は、見事に成功したと言える。全く見事としか言いようがない。

 

昭和天皇が、「退位」するチャンスは、三回あったとされる。

1945年10月下旬、近衛公爵が天皇退位の可能性を公然と口にし、そのあと内閣の圧力によって訂正したために動揺が起きた。近衛は、日米開戦を回避できなかったこと、また戦争の早期終結を実現できなかったことについて、天皇は個人的に重大な責任を負っていると考えており、それをいつになく率直に語ったのであった。・・・(中略)・・・その数日後、東久邇は甥に退位の三つの「適切な時期」について考えるよう個人的に促したと、直接日本のメディアに語った。第一の時期は、すでになんらの行動もとられることなく過ぎてしまっていたが、それは「降伏文書に署名した時」である。しかし、あとの二つの「適切な時期」は、これからやって来るものであった。東久邇の考えでは、憲法が修正された時か、講和条約が締結された時に、裕仁は退位を考えるべきだった。メディアは、皇太子が成人するまで、天皇の弟である高松宮摂政になると推測していた。(p71)(太字は管理者による)

 タラレバであるが、昭和天皇がこの三つの「適切な時期」のいずれかに「退位」していたら、その後の日本とアジア諸国との関係はどのようになっていたのだろう?

 

この本の著者「ジョン・ダワー」を知ったのは、『転換期の日本へ〜「パックス・アメリカーナ」か「パックス・アジア」か』(ジョン・ダワー、ガバン・マコーマック共著 NHK出版 2014年)を読んだからである。日本は以前として、アメリカの属国として生きている事実を知らされた。あまり認めたくないことだが、日本の上層部は、アメリカの方を向いてばかりいるようだ。

 

無謀にも、何か他の道はないのだろうか?と思い、まずジョン・ダワー氏の著作を手にとって読んでみた。

 

 Facebook 「ZEKKEI  Japan」さんの写真より。↓

「雨の日は、苔も大喜び!?  苔から顔を出しているお地蔵さまにも癒されますね。」
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敗北を抱きしめて〈上〉―第二次大戦後の日本人

敗北を抱きしめて〈上〉―第二次大戦後の日本人

 
敗北を抱きしめて〈下〉― 第二次大戦後の日本人

敗北を抱きしめて〈下〉― 第二次大戦後の日本人

 

 

 

転換期の日本へ 「パックス・アメリカーナ」か「パックス・アジア」か (NHK出版新書)

転換期の日本へ 「パックス・アメリカーナ」か「パックス・アジア」か (NHK出版新書)

 

 

 

 

読書メモ『やわらかな生命』

図書館本『やわらかな生命』(福岡伸一   文藝春秋   2013年)再読了。(文庫本も出ているようだ。)

一度読んだ本だった。読んだことを忘れて、また借りてきてしまった。いかに記憶力が低下しているかが分かる。トホホ(;´д`)

 

『銃・病原菌・鉄』の著者ジャレド・ダイアモンドさんに会った時のことを書かれた章があった。

世界がヨーロッパ化された理由は何か。・・・(中略)・・・彼らの勝利の理由は何だったのか。白人たちが肉体的、精神的にすぐれていたから?遺伝子的に優位だったから?・・・(中略)・・・しかしそれは違うとダイアモンドは断言する。環境条件の差がすべてを決めたのだ。白人がたどり着いたヨーロッパにはたまたま栽培のしやすい穀物の元になる植物が自生していた。・・・(中略)・・・家畜化に適した動物がいたことも有利だった。馬、牛、羊、豚。動物たちとの接触は思わぬ災厄をもたらした。病原体。しかしこれは同時にその地域の人間に新しい力を付加した。免疫である。これも異文化間の衝突に有利に働いた。

 

端的にいえば、ダイアモンドのスタンスは、発展史観ではなく、生態史観を採るということ。世界のあり方は段階的に進化するわけでもなく、因果律に支配されているわけでもない。この世界に予め決定されていることは何一つない。一方、環境さえ決まれば同じ結果が発生するということでもない。すべては偶然に満ちた動的な平衡である。それが福岡ハカセの動的平衡論なので、その点でもダイアモンドさんとの話は弾んだ。(p231〜233)(太字は管理者による)

この「因果律」という考えから抜け出すのは容易ではない。キリスト教であれば「予定説」という考えがある。初期仏教であれば「縁起」という考えがある。さまざまな考えがあるのだが、個人的には、この世界は、偶然的な関係性の上に成り立っている仮和合の世界で あり、「因果」も「予めの決定」も存在しないものと思っている。そういう意味で福岡伸一氏(福岡ハカセ)の「動的平衡」(「生命とは動的平衡にある流れである」 )という、(個人的な理解でいうと)動きがあってしかも微妙なバランスの上に成り立っている・・・という捉え方は、実に的確に、この世界の事象を表現されているなあ、と思う。

 

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やわらかな生命

やわらかな生命