ガラガラポン日記

複雑になってしまった問題を、一度ゼロにして、考え直してみる。

読書メモ『先入観はウソをつく』

武田邦彦さんの『先入観はウソをつく~常識や定説を疑い柔軟な発想を生む方法』(SB新書 2017年)を読み終えた。

先入観というものは、必要なものもあるが、妨げになるものもある、と言う。マスコミや専門家の言うことを鵜呑みにしてはいけない、疑う癖を持ちなさいと忠告している。例えば、「太陽の色は赤」「森林が二酸化炭素を吸収する」「石油はいずれ枯渇する」「地震や火山噴火は予知できる」「国の負債は1000兆円」「増税しないと財政破綻」「文系・理系」「血圧の適正数値」などなど。

 

先入観を最初に植え付けるのは「親」であり、「学校」であり、更に「学者・大学教授・お医者さん・国・マスコミ・・・」とつづく。

では、どうすればよいのか?

その答えは第1章でお話しした「受け入れ箱」と「比較箱」を脳内に用意しておくことが大切です。どんなに偉い人の話であっても、「その話は本当なのだろうか?」とまずは疑ってみる。その後、自分で調べたり、あるいは第三者の意見を聞いたりしてみて、その話が真実かどうか確かめるべきです。(中略)

 

たとえば、「森林がCO2を吸収する」については、「成長した青年期の木以外は光合成を行わない」、「石油がやがて枯渇する」は、「石油会社は本当のことを言わない。石油系エネルギーは1万年分ある」、「地震や火山の予知ができる」は、「これまでに予知できた地震は一つもない。予知できれば多くの人が亡くなることはなかった」、「血圧の適正数値」については、「血管は年をとるごとに固くなっていくもの。だから、年齢+90㎜Hgでよい」と考えておけばよいのです。

 

「肩書きに惑わされて、事の本質を見落とすな❗」このことを肝に銘じておけば、間違った先入観を植え付けられることは減っていくのではないかと、私は期待しています。(p115~117)

なるほどですねえ。 

ここで言う「受け入れ箱」「比較箱」については、夫婦のあり方に関連して述べた部分も参考になる。

結婚生活は相手の考えを自分に取り込む最大のチャンスなのです。それができれば、あなたの人生は単純計算で2倍広がります。

このようなときこそ、第1章でお話しした脳の中の「受け入れ箱」を使うべきなのです。とことん相手の話を聞いて、自分と意見が違うとか、同じであるとかは関係ありません。相手が何を主張しているのか、そのことのみを理解しようと努めるのです。

そして、時間が経ったときに、「比較箱」に入れてみる。そこで理解できるようになっているかもしれませんし、万が一、否定的な考えになっていたとしても、それはそれでいいのです。他人の正しさを受け入れたり、あるいは考えたりすることができれば、自分の人生も広がっていくので、プラスになると考えて間違いありません。

日本のカップルや夫婦は、「相手のすべてを理解して、考え方も一緒でなければならない」という先入観を強く持っていますが、こうした考えに固執してしまうと、無理をして相手に合わせなければならないので、自分が緊張して気疲れしてしまいます。これでは健全な人間関係を築くことはできません。(p138)

たしかに。

「相手のすべてを理解して、考え方も一緒でなければならない」という先入観を持っている人が一定数いますね。私の相方もその一人です。その部分で時々ぶつかっていますので、この「受け入れ箱」「比較箱」の話は極めて参考になります。

 

 本書の一部には同意できないところもあります。著者も人間ですから、すべてを鵜呑みにするわけにはいきませんね。一度「受け入れ箱」に入れてじっくり考えてみようかな。

 

 

 ↓ Facebook 「花の写真館」より。
f:id:gsg48566:20170920102208j:image

読書メモ『日本人へ』

塩野七生(しおの ななみ)さんの著書『日本人へ~危機からの脱出篇』(文春新書 2013年)を読み終えた。

切れ味の鋭い文章ですなあ。元気のいいおばちゃんに、ズバズバ指摘されている感じでした。イヤハヤ。

 

いくつか興味深い文章があったのですが、今回はその一つを取り上げてみたい。

「なぜ人々は、マスコミから離れるのか」という見出しの章です。日本もイタリアも似たような現象が見られるようで・・・。

 

日本でも、新聞や雑誌の経営が困難になっているという。ここイタリアでも同じで、新聞社は文学全集や古い映画のDVDを出したりしているが読者は離れる一方。雑誌も今や政治家からタレントまで網羅したゴシップで埋まっているが、こちらも講読者は減る一方である。テレビも番組は低俗化するばかりだが、それでも経営は苦しいという。(p40) 

 その理由を、塩野七生さんは次のように分析している。

テーマの取り上げかたが、卑しく下品に変わったからである。政治ニュースならば、政局については騒々しいくらいに論ずるのに、政治を真正面から取り上げた記事はほとんど見かけなくなった。大新聞の政治部の記者や政治評論家は、何をみているのかと思ってしまう。コメンテーターとしてテレビに始終顔を出す政治評論家も学者も、重要なことはさし措いて瑣末なことしか論じないという点では変わりない。低俗化したほうが、講読者は増え視聴率は上がると考えているのであろうか。(p41)

 たしかに。

新聞は読まないのでどんな記事が書かれているのか分からないが、テレビは明らかに低俗化していると思う。塩野さんがテレビで観るのは、「朝晩の時事ニュースとドキュメンタリーぐらい」というのも理解できる。私は、韓流ドラマ(時代劇)を付け加えたいが。

(メモ:「瑣末」は、「さまつ」というのか。知らなかった。)

 

ところがこの考え方こそが、人々を離してしまったのだ。なぜなら人間は、自分個人にならば卑しく下品なところはあると知っていても、そのようなことばかりを浴びせかけられる状態がつづくと、遅かれ早かれアレルギーを起こすものなのである。それもとくに、自分一人ではいかに努力してもできないこと、つまり国の政治、を託した人が対象であった場合はなおのことだ。(中略)

 

問題は、「何を取り上げるのか」よりも、「どう取りあげるか」なのである。(中略)

 

日本をどうするつもりか、という、根元的なことを知りたいと願っている読者や視聴者を離してしまうことになる。つまり、足許の砂が崩れつつあるのに自己満足にふけるのを止めないことこそが、人々のマスコミ離れの真因ではないかと思うのだ。(p41~44)

本当にその通り。今まで何かモヤモヤしていたものが、この言葉でスッキリした。もっと根元的なことを知りたいのだ。誰も心の中では、政治家がみんな聖人君子だとは思っていない。ある程度のことには目をつむってでも、もっと本質的なことを追求してほしいのだ。

 

 

 

 

 ↓Facebook 「花の写真館」さんより。
f:id:gsg48566:20170917170848j:image

読書メモ『役たたず、』

『役たたず、』(石田  千  光文社新書  2013年)を読み終えた。新書にしては珍しく、日常のなかで綴ったエッセイである。

石田千という名前からは、男性か女性か分からない。本の裏にある著者の紹介文にも書いてない。今の時代だから、男性か女性かはどちらでもいいや、と思いながら読み始めた。本書の紹介文には、

だいじなことは、役にたたない。そして一見、役にたっているようにみえるものも、ひと皮むけば役たたず。役にたつことばかりしていると、暮らしも人も、痩せていく―――。(中略)エッセイストで、ここ最近は小説家としても頭角を現している石田千が、日常のなかで綴った「役たたず」の視点からの風景。(中略) 相撲好き、競馬好き、ビール好きの「町内一のへそまげちゃん」が、だいじにしたいもの。へなちょこまじめな日常記。

とある。なんか男性っぽいナア。やはり気になる。(笑)

 

「レバニラ炒めとタラ入りスープ」の章を読むと

注文を決められないのは、好き嫌いがないからということもある。だいたい、いつでもなんでも食べたい。喫茶店も、いろんなコーヒーがあると迷う。違いのわからぬ女は、うえから順番に頼むことにしている。(p66)

おや?女性なのか?

 

次の章では、

花のほうは初夏なのに、吐く息はしろい。近くに住む友だちに声をかけるにも、雨がひどい。上野につくと、靴のなかが、じゃぶじゃぶになった。

四十路女は、紙袋をぶらさげ改札にむかう。

そして、スイカの残金が足りず、通せんぼをくらった。(p85)

どうやら、石田 千さんは、女性のようだ。

 

というわけで、あまり役にたたないまま、本記事を終わらせていただきます。失礼しました。

 

 

役たたず、 (光文社新書)

役たたず、 (光文社新書)

 

 

 ↓ Facebook 「ZEKKEI  Japan」さんより。
f:id:gsg48566:20170913193921j:image

 

 

 

 

読書メモ『46年目の光』

『46年目の光』(ロバート・カーソン 池村千秋訳 NTT出版 2009年)を読了。

主人公(マイク・メイ)は、3歳で視力を失い、46歳のとき手術で視力を取り戻した。それだけだと、ハッピーエンドの話と思うのだが、実際は違った。視力を回復しても、それを処理する脳の働きが失われていたのだ。まさしく想像を越えた生き方が詳しく書かれている。著者は、主人公、家族及び医療関係者などに2年間にわたってインタビューを重ねたという。約450ページに及ぶ力作だ。主人公の心理描写などは、まるで本人が書いたようだ。非常に綿密に取材され、こと細かく書かれている。

 

主人公が視力を回復しても、正常な顔の写真と目と口が上下逆さまの写真の区別が、すぐにつかなかった。

(参考:↓「サッチャー錯視画像」(この区別がつかなかった、ということらしい。))


f:id:gsg48566:20170821162621j:image

ものの動きと色はほぼ完璧に見て取れるのに、人間の顔はなにも意味せず、(対象物が動いていないかぎり)奥行を理解できず、物体の識別もすんなりとはできなかった。(p363)

 

 

 

ある親しい友人との対話が印象深い。

「それにしてもおもしろいな」と、バシンは言った。「ファイン博士の話だと、人間がものを見るという行為の多くの部分は予備知識と予想を土台にしている。そういうわけだろ?」

「そうだと思う」

「同じことは人間の感情についても言えると思わないか?ある人に対して特定の先入観をもっているせいで、その人について見えることと見えないことがあるんじゃないだろうか?おれが言いたいのは、人間の頭の中や心の内面のことだよ。このスプーンや公園のベンチが美しいものだという先入観をもっていないせいで、その美しさを見落としてはいまいか?」

「うん」と、メイは言った。「ものを見るためには脳が知識を当てはめなければいけないと、ファイン博士は強調した。でも、先入観を当てはめないことにもいいところがあると思う」

「あらゆる可能性を閉ざさずにおける・・・」

「そう、すべての可能性を閉ざさないでいられる。あらゆる解釈を排除しないでおける。ある意味でおれの視覚には制約がない。おれの見るものの大半はなんにでもなりうる。ある物体なり、ある人間なりがどんなものにでもなりうるというのは、なかなか魅力的だ。ほぼあらゆるものを美しいとして評価できる可能性があるわけだからね」

二人は夜更けまで語り合った。奥行きがわかるのは脳による解釈にすぎない。言い換えれば不確かな部分を埋めるために脳が本能的に深い溝の上を跳躍した結果なのだというファインの説明に、二人は好奇心をそそられた。(p390~391)

 ふだんの生活の中で、脳は視覚から得られる膨大な情報をテキパキと処理して、私たちが生活しやすいように支援してくれている。もしこれを意識的に行うとしたら、この本の主人公のように、たちまち疲れきってしまうことだろう。そういう意味で、脳の役割は大事だ。ただ、脳が土台にしている「予備知識」が変化した場合、見る光景も異なってくる可能性が考えられる。そうなると、どんな光景が見えるのか興味が湧いてくる。

 

 

 

46年目の光―視力を取り戻した男の奇跡の人生

46年目の光―視力を取り戻した男の奇跡の人生

 

 
f:id:gsg48566:20170821203847j:image

 

 

 

 

 

 

読書メモ『偶然とは何か』

『偶然とは何か』(岩波新書  2010年)。著者は、竹内啓さん。氏の専攻は、統計学、経済学、科学技術論。

 

最初、タイトルをみたときは、哲学書かな?と思ったが、ちょっと違った。統計的な説明や、確率論、リスクマネジメントなどの記述もある。少し難しい。

 

難しい文章が多い中、ホッとする話も書かれている。「予言ダコ」のパウル君だ。

「予言ダコ」のパウル君が、サッカーのワールドカップの八試合の勝敗の結果を予測して当てたことが大きな話題となった。・・・八試合全部を当てる確率は・・・約0.4%である。・・・少なくとも決勝トーナメントの五試合については、事前に予測して当てたことが伝えられている。そうするとその確率は・・・0.031………となって、まだ十分小さいと考えることができるから、やはり「不思議」とはいえるかもしれない。しかし、その程度の「偶然」は広い世の中でいくらでも起こることだから、「不思議な偶然が起こった」という程度にして済ますべきであろう。(p121~122)

 「不思議な偶然」というのは、「言い得て妙」だ。単なる「偶然」というと「予言ダコ」を信じている人たちは憤慨するだろう。「不思議な偶然」という言葉であれば、渋々頷きそうな気がする。

何かを信じたい、という人々にとっては、「不思議な偶然」もすべて「必然」に見えてしまうらしい。一度、この術中に嵌まると、抜け出すのは容易ではない。

 

「運」「不運」を分け合う、ということについて。

偶然というものは、本来不合理あるいは「不条理」なものである。したがって、自分にとって好都合な偶然は「幸運」であり、不都合な偶然は「不運」というよりほかはないのである。(中略)

 

「運」や「不運」は避けられないとしても、「幸運」からできるだけ多くの喜びを見いだし、「不運」のもたらす「惨めさ」や「悲しみ」をなるべく少なくすること、あるいは場合によっては「禍いを転じて福となす」ようにすることは、それぞれの人の努力によるところである。(中略)

 

もう一つ重要なことは、「運」や「不運」は他人と分かち合うことができるということである。(中略) つまり「不運」を分け合うことによって、人々は「不運」をもたらす偶然は防ぐことができないとしても、そこから生じる「不幸」は小さくすることができるのである。(中略)

 

「運」や「不運」は、各人にとっては、結局は自ら引き受けなければならないものであるとしても、社会の中で、自分の「幸運」は当然自分の権利であり、他人の「不運」はその人の「自己責任」であって知ったことではないとするのは、道義的に正当とはいえないであろう。「運」「不運」は、他人と分かち合うことによって「偶然の専制」を和らげるべきではなかろうか。(p163~168)

 この辺りは、何となくわかるような気がする。戦後、新宗教が多くの人々に支持されたことや、大災害のあと、多くの人々が援助の手をさしのべたことを見ても理解できる。

 

なお、この本では、原子力発電所メルトダウンの危険性などについても書かれており、多重安全システムの必要性などに言及されている。この本が出版されたのが2010年9月であり、福島原発メルトダウンの半年前である。

 

Facebook 「ZEKKEI  Japan」より。

 

f:id:gsg48566:20170804123511j:plain

 

 

 

偶然とは何か――その積極的意味 (岩波新書)

偶然とは何か――その積極的意味 (岩波新書)

 

 

 

 

読書メモ『戦争にチャンスを与えよ』

以前から読みたいと思っていた。図書館でようやく借りることができた。

著者は、エドワード・ルトワック。本書著者の紹介記事には、「戦略家、歴史家、経済学者、国防アドバイザー・・・」などと書かれている。一筋縄ではいかない雰囲気がある。

 

この本は、第一、二章で論文「戦争にチャンス与えよ」について書かれており、その後は、この本の訳者が聞き手となって、日本を取り巻く外交・軍事的課題についてその解決策を聞き出している。

 

本のタイトルからイメージしていたものとは、少し違うなあ。

 

最も興味深かったのは、「北朝鮮論」です。

私は戦略家であり、政治家ではない。ましてや教師や牧師でもない。倫理道徳の価値観の教育は専門外だ。したがって、私が日本政府に対して言えるのは、「何もしないのが最悪の選択肢で、以下の選択肢のうちの一つを実行せよ」ということぐらいである。(p111)

 

第一の方策は、「北朝鮮に降服する」というものだ。

北朝鮮政府が真に何を望んでいるのかを聞き出し、経済制裁をすべて解除する。・・・

(中略)

次の方策は、「北朝鮮を攻撃する」というものだ。しかもこれは、先制攻撃でなければならない。・・・

(中略)

さらには「抑止」も一つの選択肢となろう。「抑止」としては、日本が1000キロの射程の弾道ミサイルを持ち・・・

(中略)

最後の選択肢としては、「防衛」がある。これは、ミサイル防衛によるものだが、どのシステムも完璧ではない。・・・ (p112~118)

「降服」(もしくは「宥和」)というのは意外でしたが、人的損害が無いという点では極めて現実的かもしれない。

 

この章で著者が最も警告していたことがある。それは、「何もしないこと」、「まあ大丈夫だろう」という態度だ。

人々は、平時には、脅威を深刻なものとして考えられないものだ。平時に平和に暮らしていれば、誰かの脅威に晒されていても、空は青いし、何かが起こっているようには思えない。友人との飲み会に遅れないことの方が重要で、脅威に対して何の備えもしない。

つまり、脅威に対して降服するわけでも、「先制攻撃を仕掛ける」と相手を脅すわけでもない。そのように何もしないことで、戦争は始まってしまうのである。

平時には、脅威が眼前にあっても、われわれは、「まあ大丈夫だろう」と考えてしまう。脅威が存在するのに、降服しようとは思わず、相手と真剣に交渉して敵が何を欲しているのかを知ろうともせず、攻撃を防ぐための方策を練ろうとも思わない。だからこそ、平和から戦争が生まれてしまうのである。(中略)

平和は戦争につながる。なぜなら平和は、脅威に対して不注意で緩んだ態度を人々にもたらし、脅威が増大しても、それを無視する方向に関心を向けさせるからだ。日本にとって、その典型が北朝鮮問題だ。(p109~110)(太字は管理者が。)

 

 これは、耳が痛い。

 

逆説的な表現が好みのようだ。「平和は戦争につながる」・・・そういうことは考えたこともなかった。

 

戦争にチャンスを与えよ (文春新書)

戦争にチャンスを与えよ (文春新書)

 

 

 

 ↓Facebook 「花の写真館」より。

 
f:id:gsg48566:20170724101829j:image

読書メモ『二酸化炭素温暖化説の崩壊』

二酸化炭素温暖化説の崩壊』の著者は「広瀬隆」さんです。この方は、原発反対だけかと思っていたが、そうではなかった。

 

地球温暖化」というのは、たびたび聞かれる言葉で、なじみが深い。温暖化の元凶は、てっきり「二酸化炭素(CO2)」だと思っていた。しかし、本書の最初の部分を読んだだけで、その考えが、ガラガラと音をたてて崩れていくのを感じる。イヤハヤ。

 

今の人類は、NHKを筆頭とするテレビ番組、テレビコマーシャルが示す通り、CO2を減らせば環境を守れるという幼稚園児レベルの知能しかない。ヒートアイランド原発放射能災害、発電所の温排水、砂漠化、野生生物危機、大気汚染、水質汚染酸性雨熱帯雨林の破壊、遺伝子組み換え食品、環境ホルモン食品添加物、農薬、ダイオキシン汚染、増え続けるゴミ、大地震の恐怖、戦争など、ありとあらゆる環境破壊と毒物生産を放任して、すべて無実のCO2にその罪をなすりつけ、人類が大規模な環境破壊に踏み出し始めた。(p30)

 厳しい口調ではあるが、ある意味当たっていると思う。

 

過去45万年間という長大な気温の変化を示した図が、本書に表示されていた。↓ (p85)



f:id:gsg48566:20170723105050j:image

これを見ると、気温は、温暖な時期と寒冷な時期を繰り返しており、今は、温暖な時期に突入していると思われ、気温の上昇は想定内ということになる。

現在論じているのは100年に1℃にもならない気温上昇だが、過去には、氷河期と温暖期がこのようにたびたび訪れて、その気温差は12℃もあるのだ。ジャワ原人北京原人の子孫も、この激変の時代を生き抜いてきたのだから、地球温暖化の旗を振りかざして「人類が滅亡する」と叫び回る人たちに、「これは自然現象なのだからあきらめなさい。ほかにもっと深刻な問題があるのですよ」と言いたげだ。(p86)

 

また、地球温暖化の原因とされる「CO2」については、

現在のところ、温室効果ガスの寄与率には、科学者によって諸説あるので、断定はできないが、水蒸気の寄与率は、最小の説でも60%であり、最大の説でも95%である。この「水蒸気を除いた場合」には、IPCC第四次報告書からの数字を読み取ると、CO2―――60%、メタン―――20%、フロン類―――14%、N2O(一酸化窒素)―――6%ぐらいと推定されている。つまり、現在の温暖化で議論されてきたのは、なぜか「水蒸気を除いた」この四つだけで、とりわけCO2だけに話が集中していること自体が、おかしいのである。(p122~123)

水蒸気、というのは意外でしたが、考えてみれば地球の表面の大部分は「海」なわけで、そこから発生する大量の水蒸気が影響するというのは、自然なことなのかもしれません。

 

 

二酸化炭素温暖化説の崩壊 (集英社新書)

二酸化炭素温暖化説の崩壊 (集英社新書)

 

 

正しく知る地球温暖化―誤った地球温暖化論に惑わされないために

正しく知る地球温暖化―誤った地球温暖化論に惑わされないために

 

 

 ↓Facebook「花の写真館」より。


f:id:gsg48566:20170723113821j:image