ガラガラポン日記

複雑になってしまった問題を、一度ゼロにして、考え直してみる。

私のブログもそろそろご臨終かな?

先日、Twitterでこんなブログの記事を見かけた。

 

www.procrasist.com

 

 

 

2年以上ブログを継続される方(あるいはグループ)が、思った以上に少ないことに驚いた。私の場合は、既に2年以上経過している。ブログを始めた頃は、こんなに長続きするとは思ってもいなかった。多くの人に見ていただき、感謝の言葉しか思い浮かばない。私の記事で不快な思いをされた方がいたかもしれない。お詫び申し上げる。

 

ここ数年の間に、(私の知る範囲で)新しいブログをいくつも発見している。それらの記事を読むと分かりやすい文章で知識も豊富である。何より自分の頭で考え、自分の言葉で発信している。読んでいて楽しい。それと同時に自分のブログがそろそろ終了の時を迎えたことを感じている今日この頃です。

 

 

読書メモ『評価と贈与の経済学』

図書館から『評価と贈与の経済学』(内田樹  岡田斗司夫FREEex  徳間ポケット  2013年)を借りてきた。

 

本の表紙の裏に、

異なるフイールドで活躍するふたりの知の匠。

くしくも見解の一致をみた、ポスト資本主義社会における新しい共同体のかたちとは。

と書いてあった。よくまとまってるなあ。

 

岡田斗司夫さんは、今の社会は「イワシ化」しているという。

イワシって小さい魚だから、普段は巨大な群れになって泳いでいる。どこにも中心がないんだけれども、うまくまとまっている。自由に泳いでいる。これは見事に、いまの日本人なのではないかと。そのときの流行りとか、その場限りの流れだけがあって、価値の中心みたいなものがなくなっているんじゃないかと思いますね。

イワシ的にシステム全体がなんとかうまく動いているおかげでまとまっているように見えますが、突発的になにかが起きたら容易にバラバラになる。(p24〜25)

 社会の一断面をうまく表現しているなあ。

 

      ※  参考記事:なぜいわしは群れるのか - 小人さんの妄想 

 

「新しい共同体のかたち」というのが大変興味深い。

「家族」中心の形態にとらわれず、他人が数人集まって疑似家族のようにして生活する形態が選択肢のひとつとして提案されている。(本書では、「拡張家族的な共同体」とも表現されている。)

これは「おひとりさま」といわれる人が次第に増えている現状を見ると、社会に受け入れられそうな考えだ。特に私のような高齢者などは、「おひとりさま」になったとき、生活上の不安が大きいので、疑似家族のような住み方が大変参考になる。

 

「贈与経済、評価経済」という章がある。

内田樹

サッカーって、そういう点ではほんとうに贈与と反対給付の人類学的な叡知をグラウンドで鮮やかに見せてくれるんですから。パスラインが多彩な人、誰も考えなかったようなラインにパスを出す「ファンタジスタ」がゲームのキーパーソンになるんですからね。(p150)

 今、テレビなどでは、ワールドカップの話題で盛り上がっているが、意外なところにサッカーの話が出てきたので驚いている。贈与経済の視点でみるサッカーか。これはこれで面白そう。

 

評価と贈与の経済学

評価と贈与の経済学

 

 

 

読書メモ『心でっかちな日本人』

山岸俊男さんの『心でっかちな日本人〜集団主義文化という幻想』(ちくま文庫  2010年)という本を読了。

 

「心でっかち」という言葉がおもしろい。

「心でっかち」というのは、「頭でっかち」という言葉をもとにして筆者がつくった言葉です。「頭でっかち」というのは、誰でも知っているように、知識や理屈ばかりで行動が伴っていない状態を指す言葉です。(中略)

 

「心でっかち」というのは、知識と行動のバランスがとれていない「頭でっかち」のように、心と行動のバランスがとれなくなってしまっている状態です。心の持ち方さえ変えればすべての問題が解決される、と考える「精神主義」がその極端な例です。(中略)

 

筆者が本書でしようとしているのは、「日本文化」という神話のベールを一枚一枚丹念に剥ぎ取った「裸の現実」を見ることこそが、「何をどのように変えればよいのか」を知るために、私たちが避けて通ることのできない路である―――筆者はそう考えてこの本を書きました。(p5〜7)

 

わたしは、「頭でっかち」 と言われることが多いので、そういう時は反論できないことが多かったが、今度は「君は、心でっかちだね」と言い返してみようかな(笑)

 

「頭でっかち」でも「心でっかち」でもなく、バランスの問題なのかな?

 

 

ここで最後に指摘しておきたい点は、集団主義的行動が頻度依存的に維持されているということは、日本社会における集団主義文化がきわめて急速に変化する可能性を示唆しているという点です。文化が世代を通して安定している心の性質であると考えれば、その変化はゆっくりとしたものとなるはずです。これに対して、文化とは私たちが私たち自身の行動によって生み出している相補均衡だと考えれば、集団主義的行動をとる人々の比率の減少は限界質量を超えて、加速度的な変化を生み出す可能性があるからです。(p254)

 今、この時代、何か変化が起きつつあるのかもしれない。

 

本書の最後に、長谷川眞理子氏の解説が載っている。

本書のおもな主張を一言で表せば、人間の「心」というものの「本質主義」の否定だと言えるだろう。(中略)

 

では、本質論的ではない「心」の考え方とは、どんなものだろう?それは、人々の心なんて、そんなに一人一人本質的に違うものではない、そして、どんな社会システムの中にいるかで、同じ人間だって行動は大いに変わるだろう、という考えだ。(p262〜263

 

 テレビの旅番組などを見ると、世界各国の人々と私たち日本人は、同じ人間だと感じることが多い。違いがあるとすれば、社会システムの違いなのかな? 

 

心でっかちな日本人 ――集団主義文化という幻想 (ちくま文庫)

心でっかちな日本人 ――集団主義文化という幻想 (ちくま文庫)

 

 

「物語」〜特に「宗教」と「経済」

   個人的に思うのだが、「宗教」と「経済」は、「物語」の要素が大変多いのではないかと思っている。その「物語」をうっかり信じていた自分がいた。

 

最近、Facebookのともだちが投稿記事で紹介していた論文(※注1)に興味を引かれた。

 

そこで「宗教経済学」という分野があることを知った。

その中に、以下のような文章があった。論文筆者の意見という訳ではないが。

    個人は宗教行為のために費やされるコストである時間と財を、それによって得ることのできる利益(と本人が感じて満足するもの)である「死後の幸福」とのはかりにかけ、利益が最大になる宗教行為を選択するものであり、その選択は数学的な計算として、すなわち合理的選択として抽出することができる、というのが宗教経済学の基本的な発想ということになる。(p128)

勝手に突っ込んでみると。↓

 

(と本人が感じて満足するもの)という部分は、大事なところだ。あくまでも「本人」がであって、普遍的なものではないからだ。テレビの健康食品CMで、「あくまで個人の感想です」という言葉が入るのと似ている。

 

「死後の幸福」というのは、少し違うような気がする。一神教であればそう言えるかもしれないが。日本であれば、「浄土」という人もいるだろうが、多くは「目の前の幸福」の方ではないだろうか。

 

「合理的選択」というのは、当てはまらないような気がする。人間的な繋がりや私のように親が信仰していたからというような、非合理的な理由が多いように思う。(因みに、この論文に数式が出てくるが、宗教関係の論文で数式が登場したのを見たのは初めてなので大変驚いた。合理的ということを徹底すれば、数式で表現できる、ということかな。)

 

行動経済学」(※注2)という分野があるらしい。従来の経済学と異なり、人間は必ずしも合理的に行動、選択するわけではない、という主張らしい。入門書を2冊ほど読んでみたが、何となく理解できる程度。心理学の本を読んでいる感じだった。

 

心理学といえば、「合理化」という視点も参考になりそうだ。それが「宗教」や「経済」での「選択」を合理的なものと自分に納得させているのではないだろうか。

 

『物語の役割』(小川洋子 ちくまプリマー新書 2007年 )という本に以下のような文章があった。

物語は本を開いたときに、その本の中だけにあるのではなく、日常生活の中にいくらでもあるんじゃないかということです。

 

たとえば、非常に受け入れがたい困難な現物にぶつかったとき、人間はほとんど無意識のうちに自分の心の形に合うようにその現実をいろいろ変形させ、どうにかしてその現実を受け入れようとする。もうそこで一つの物語を作っているわけです。

あるいは現実を記憶していくときでも、ありのままに記憶するわけでは決してなく、やはり自分にとって嬉しいことはうんと膨らませて、悲しいことはうんと小さくしてというふうに、自分の記憶の形に似合うようなものに変えて、現実を物語にして自分の中に積み重ねていく。そういう意味でいえば、誰でも生きている限りは物語を必要としており、物語に助けられながら、どうにか現実との折り合いをつけているのです。(p22)

 たしかに「物語」にはそういう面もあると思う。しかし、中にはその「物語」を利用してくる人もいる。多くの人々が、ある「物語」を信じ、一部の人間は、それを知って利用するというパターンだ。あるいは、「物語」を作り、それを多くの人に信じさせるということだ。

 

特に「宗教」と「経済」には、要注意だ。

 

「物語」ということでいろいろ思いを巡らせている。自分でもよく分からない部分もあるが、何かが掴めたらいいなあ、と思っている。

 

 

 

 

 

 

※注1

www.jstage.jst.go.jp

 

※注2

brave-answer.jp

 

物語の役割 (ちくまプリマー新書)

物語の役割 (ちくまプリマー新書)

 

 

読書メモ『人はなぜ物語を求めるのか』

『人はなぜ物語を求めるのか』(千野帽子(ちの・ぼうし) ちくまプリマー新書 2017年)を読んだ。

 

本書を簡略に説明している文章を探していたら、「あとがき」にあった。

人間は物語を必要としている、とよく言われます。(中略)

 

本書の主張は違います。人間は生きていると、二酸化炭素を作ってしまいます。そして人間は生きていると、ストーリーを合成してしまいます。人間は物語を聞く・読む以上に、ストーリーを自分で不可避的に合成してしまう。 というのが本書の主張なのです。(p219)

 

人は意識的にあるいは無意識のうちに、ストーリーを合成しているようだ。

「ストーリー」は人間の認知に組み込まれたひとつのフォーマット(認知形式)です。このこと自体は、ただの事実であり、いいことでも悪いことでもありません。

人間はストーリー形式にいろいろな恩恵を受けています。それなしには人間は生きられないと言ってもいいくらいです。(中略)

 

ストーリーが人を救うこともありますが、そのいっぽうで、僕、あるいはあなた、ひとりひとりの人間の個別の状況によっては、逆にストーリーが人を苦しめたりすることがあります(正確には、僕やあなたがストーリーを使って自分を救ったり、苦しめたりすることがある、というべきでしょう)。(p13)

 

本書のテーマは幅広いようだ。私が理解できるのはほんの一部だけ。それは、私自身の経験に基づく部分に限られている。

 

むかし、『共同幻想論』 という本に衝撃を受けた。

吉本は、国家とは共同の幻想であると説く。人間は、詩や文学を創るように、国家というフィクションを空想し、創造したのである。 (Wikipediaより。) 

それまで考えたこともなかった。「国家」というものは既にあって変わらない巨大な組織であると思っていた。それが「共同の幻想」であるという。

 

身近な家族の場合。

認知症の母親の様子を見ていて、人間というものは、自分の考えにこれだけ苦しめられるのかと驚いたことがある。母は、お金を盗られるという妄想にとりつかれ、自分で自分をがんじがらめにしてしまった。

 

私自身のことでいえば、満員の地下鉄に乗ると、自分が貧血で倒れるのではないかと不安になり、鼓動は早まり脂汗が出て速く目的地につかないかなあ、と必死の思いにとらわれたことがある。今で言えば「パニック障害」と言われるものだろうか。

 

共同幻想」→「妄想(イメージ)」→「パニック(不安)」という個人的な経験を踏まえて、本書の「ストーリー、物語」ということを読んでいくと、人間からマイナスな「物語」を外してあげたくなる。しかし、それは無理なようだ。

 

「物語」を「物語」として自覚できるようになることが、まず最初の一歩なんだろうか。

 

現実を、「物語」化せずに、ありのままに観ること。これもひとつの方法かもしれない。

 

「なぜ?」と問いかけた場合、「答えがない」ということも選択肢の一つとして残しておくようにしたい。

 

「物語」をポジティブに捉え、自由自在に操ることが出来れば、新たな生き方が現れてくるのかもしれない。

 

 

 

『図説 歴史の研究』と「7年2ヶ月」

 私の手元に『図説  歴史の研究』という3冊本がある。学生の頃、アルバイトしたお金で購入したものだ。写真も多くて見やすいのだが、個人的には、文章が読みづらかった。読んでも全然頭に入ってこなかった。私の頭が悪かったのかな。

数年前、たまたまネットを検索しているとき、この『図説歴史の研究』を、個人でこつこつと翻訳しているホームページに遭遇した。

 

 「鈴木弥栄男のホームページ」です。

http://yaeo.sakura.ne.jp/

 

ホームページの画面上の方に「「トインビーによる歴史の研究」「図説・歴史の研究」対訳中」 とあり、クリックするとダウンロードされ、pdfで文章を読むことができます。

 

翻訳文を読んでみて、その分かりやすさに驚いた。それ以来、時々翻訳の進み具合を拝見させていただいている。先日、久しぶりにホームページを訪問したら、無事翻訳が終了していた。何と7年2ヶ月かかったそうです。本当にお疲れさまでした。おかげで全文がネットで読める。これほど嬉しいことはない。感謝感謝。

 

図説歴史の研究 1

図説歴史の研究 1

 

 

 

図説歴史の研究 2

図説歴史の研究 2

 

 

 

図説歴史の研究 3

図説歴史の研究 3

 

 

『バウッダ〔佛教〕』を読み始める。(一部改訂 2018/7/15)

中村元(なかむら はじめ)、三枝充悳(さえぐさ みつよし)さんの『バウッダ〔佛教〕』(講談社学術文庫 2009年 (原本は1987年))を読み始めている。今回で何回目だろうか。この本を購入したのは、2011年だった。

 

きっかけは、1998年にいただいたある先輩からの手紙にこの本のことが書いてあったからだ。

 

(この手紙を私がいただいたのは、本当に偶然だと思う。先輩の大きな人的ネットワークの外側で、右往左往していた私に向けて、たまたま大きなボールを投げてくれたのだと思う。内容からして私個人の手元に置いておくのはもったいないと思い、幾人かの友人には、手紙の原本コピーを渡してきた。その後、ネットを利用するようになってから、少しでも参考になればと思い、「先輩からの手紙」としてこのブログの最初に公表した経緯がある。

→2018/7/15に削除させていただきました。読んでいただいた方々及び関係者の方々に感謝申し上げます。)

 

 

この手紙を読んで、当時の私はほとんど理解できなかった。返事を書くことも出来ぬまま時が過ぎていった。この手紙をいただいた年、先輩は肺結核のため亡くなってしまった。とうとう返事を書く事ができなかったことを後悔している。

 

2011年、会社を早期退職し、先輩からの手紙を理解しようと勉強を始めた。その最初に購入したのがこの本である。手紙に書いてあった仏教の基本原理である「三法印」という言葉さえよく理解していなかった私である。何と情けない。

 

物事を考えるということについては、先輩のの以下の言葉が大変参考になった。

物事を考えるということは、完全に自立した個性の為しうる行為である。

※物事を考えるには、あらゆる先入観や捉われから解放されるということが前作業として必要とされる。

※そして、考え始めた時には、思考停止の領域は、一切設けてはならない。
言い換えれば権威や秩序などという現実社会の規範は持ち込んではならないし、タブー(禁忌)なども設けてはならない。
ありとあらゆることが、思考実験の対象となるということを覚悟しておかねばならない。

「考えるということ」『増補遺稿集』より - えぞしろくまのつぶやき )

 

来年は、2018年。手紙をいただいてから20年。遅ればせながら何とか自分の思うところをまとめてゆきたいと思っている。2011年から勉強してきたが、まだまだであるけれども、今の理解している範囲で、少しずつまとめて行こうと思っている。

 

 

バウッダ[佛教] (講談社学術文庫)

バウッダ[佛教] (講談社学術文庫)