読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ガラガラポン日記

複雑になってしまった問題を、一度ゼロにして、考え直してみる。

読書メモ『日本人のための経済原論』

図書館本『日本人のための経済原論』(小室直樹 東洋経済新聞社 2015年)を読了。

・・・難しかった。

この本は、「資本主義原論」と「経済原論」の二章からなっている。近代資本主義を理解するためには、キリスト教を理解しなければならない、というのが印象的であった。

経済原論は、飛ばし読み。

 

最も印象的だったのが、キリスト教の「予定説」に関する部分。

キリスト教の神髄は予定説である。予定説(predestination)は、資本主義の精神の中枢をなし、資本主義理解の急所である。(p118)

 ここから30数ページに渡って「予定説」の説明が続く。

人間のために神があるのではなく、神のために人間が存在する。(M・ヴェーバー『プロティスタンティズムの倫理と資本主義の精神』大塚久雄岩波書店 p152)(p118)

予定説の前提は、神はすべての被造物に主権を有する(同上 p146)(p119)

キリスト教における救済(salvation)とは永遠の生命を与えられることである。(p120)

神は全く自由に、恣意に恩恵を与える。または与えない。そのように勝手気儘に意思決定(決断)する。(p123)

神は、ある人々(選ばれた少数者)だけを救い(永遠の生命を与え)、他の人々(選ばれざる多数者)は救わない(永遠の死滅を約束する)。これを「神の二重の決断」と言う。(p130) 

キリスト教の論理は予定説であるから、因果律ではない。因果律の反対の目的論(teleology)である。目的論では、設定された目的へ向けて結果が収束してゆく(例:神の意志〔目的〕は、どんな紆余曲折があっても実現される〔結果〕)と考えるのであるから、この点において「原因から結果が生ずる」と考える因果律とは、正に論理の向き(ヴェクトルの方向)が正反対である。仏教の論理は因果律キリスト教の論理は予定説。論理のヴェクトルの向きが正反対なのである。(p134〜135)

 

キリスト教が本格的宗教活動を始めたのは、近代に入ってからである。その契機となったのが・・・プロテスタントティズムの勃興と彼らの手による聖書の近代語訳である。・・・近代初頭、資本主義が胎動を始めた頃、ヨーロッパ世俗界においてキリスト教の本格的宗教活動が定着したことこそ刮目(注目)するべきである。(p155)

 

 キリスト教、なかでもプロテスタントティズムは、近代資本主義に次のような影響を及ぼしたと言う。 

 その結果の一つが、「タテの絶対所有権」が「ヨコの絶対所有権」 (人間たる所有者の所有権もまた絶対である)をも生んだことである。ここから資本主義が発生し発展してゆくことになる。

もう一つの結果は、主権概念の発生である。主権者は、宇宙における神の如く、領域では何事もなし得るようになった。主権から近代デモクラシー国家が生まれた。(p156)

(絶対所有権と主権、この結論部分は、正直よく分からない。)

 

参考:「キリスト教」「プロテスタント

 

 近代資本主義というのは、キリスト教を主な基礎にして作られたルールに則っているらしい。そのルールに則ってゲームをする場合、まずキリスト教を理解しなければならないのだろう。理解できなければ、本来の近代資本主義も近代デモクラシーも成立しない、ということになるのか。例えば、「日本経済」。小室直樹氏によれば、

 日本経済は、資本主義みたいであるとされているが、実は、資本主義ではない。・・・では、日本経済の正体は何か。封建制と資本主義と社会主義との混合経済である。(p238〜239)

 

しかし、日本の場合、多くの人々は仏教因果律に支配されているのに、キリスト教の予定説は理解できるだろうか。小室直樹氏も、「日本人には予定説が理解できない、絶望的に困難」(趣旨)と述べている。(p124) そうすると、キリスト教に基づく欧米型の「近代資本主義」が、日本に根付くことは難しいことになる。

 

しかし、このまま欧米型の「近代資本主義」の時代が続くのだろうか? いや、過去の歴史を見ると、中国やインドが世界をリードしていた時代があった。イスラム世界も見逃せない。東南アジア、アフリカ諸国の可能性も注目だ。

 先日、NHK「欲望の資本主義」を見た。今、近代資本主義は、先行き不透明になっているようだ。近代の歴史を踏まえた上で、宗教も含めて根本からの再検討が必要な時期に来ているのかもしれない。

 

参考: 「異色すぎるNHK経済番組」は、こう生まれた | 国内経済 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準

 



f:id:gsg48566:20170523170039j:image

 

 

 

欲望の資本主義

欲望の資本主義

 

 

 

善と悪の経済学

善と悪の経済学

 

 

 

読書メモ『呆けたカントに「理性」はあるか』

図書館本『呆けたカントに「理性」はあるか』(大井玄  新潮新書 2015年)読了。

著者の大井玄さんは、医師として終末期医療に携わっておられる。

 

 

本書の「はじめに」で、医師が、重度認知症の患者に「胃ろう」をつけるか?と聞く場面がある。私は、びっくりした。私の母は重度の認知症で、特別養護老人ホームにお世話になっている。そのような母に、重要な選択を「聞く」という発想自体がなかった。しかも、その患者は即座に「いやです」と答えたという。これまた予想外のことだった。意思表示がどこまで認められるか微妙な問題はあるのだろうが、考え込んでしまった。この部分が、本書の主要テーマである「理性と情動」「意識と無意識」「好き嫌いという直感的意思表示」へと繋がっていく。

 

 

認知症高齢者への対応について、日本とアメリカの対応の違いについて書かれている。アメリカの方が施設入所後の余命が短いらしい。

アメリカでは、自立できなくなったらその時が生存の終わり、という生存戦略意識つまり倫理感覚があります。それは、個人はそれぞれが独立した宇宙であって、その中心に自我があり、考え、判断し、行動するという人間観に基づくものです。

これに対し日本では、調和のとれた相互依存を通して生きるのが良いとする倫理感覚が代表的です。この倫理感覚は、自己と他者とは本質的につながった存在であるという人間観に基づきます。

いずれにせよ、二つの文化を生きた筆者には、日本の老人ホームで見かける介護の優しさには心打たれることが多いのです。(p29)

 たしかに、施設職員の「介護の優しさ」には頭が下がる。特に、食事の介助、排泄の介助、入浴の介助などは本当に手間がかかるし大変な作業だが、やさしく声かけしながら介助している。

ただ個人的には、重度の認知症であれば、アメリカ式の対応もありかなと思う。自分が認知症になれば、アメリカ式の対応を希望したい。人は長生きすれば、それだけでいいと言うわけでもない。

 

人間というものは、「理性」だけでは理解できないようだ。意識と無意識の世界に生きていることを、ありのままに認めることが求められているようだ。 

 


f:id:gsg48566:20170510093539j:image

(↑ FB 花の写真館より)

 

呆けたカントに「理性」はあるか (新潮新書)

呆けたカントに「理性」はあるか (新潮新書)

 

 

 

読書メモ『哲学な日々』

野矢茂樹さんが書いた『哲学な日々』(講談社 2015年)という本を読了。

 

野矢茂樹さんという名前、どこかで見たなあ、と思っていたら、本書に書いてあった。『論理トレーニング』の著者だった。なるほどですねえ。

 

そこでまず「§32  論理的ということ」という文章から引用。

「論理的でない」と自認する人は少なくない。あれ、あなたも? (p76)

 ドキッ! 私のことか?私はずーっと自分のことを「論理的でない」と自認していた。

 

論理的とは、狭い意味では推論が正確にできることだ。しかし、私としては、より広い意味で論理的ということを考えたい。言葉を断片的にではなく、関係づけて捉えること。この言葉とこの言葉はどういう関係にあるのか。それが的確に理解でき、きちんと関係づけられた言葉を使えること。(p76)

なるほどですねえ🎵

 

だから、逆に非論理的というのは、答えになってない答えを返したり、すれ違いに気づかないで相手に反対したり、ぜんぜん説明になっていない説明を与えたりすることだ。

さらに言えば、問いを無視する、賛成も反対もしないでたんにスルーする、説明不足なんか気にしない、そこまでいくと、これは非―論理的というより無―論理的である。つなげ方をまちがえているのではなくて、そもそもつなげようとしない。ただ断片的に言葉が並べられるだけ。(p77)

「答えになっていない答えを返す」「すれ違いに気づかない」・・・これは時々あるんですよね。残念ながら。やはり私は、「論理的でない」にやや近いのかもしれない。

 

 

次に「§41   ほめるのではなく」から。

「ほめて育てる」と、よく言われる。確かに、ほめられるとやる気が出る。だから、子どもを伸ばそうと思ったなら、ほめることはとても効果的である。しかし、「ほめて育てる」という方針は根本的にまちがっている。(p94)

え〜っ!まちがっている?  なぜ?

 

ほめられて育った子が、ほめられるためにがんばるようになる。そしてそこから抜け出せない。これが最悪のシナリオである。(中略)  何かを為すときには、そのこと自体がもたらす達成感こそが、その行動の原動力になるのである。この、自分自身の内側から産み出される駆動力を、「ほめられるためにがんばる」という行動原理は奪ってしまう。

ほめる者はほめられる者よりも優位に立つ。だから、ほめられたいと思う気持ちは、自分よりも優位の者を求めることにつながる。子どもは大人たちを出し抜き、追い越していかなければいけないのに、ほめられようとして上目づかいになり、ほめてくれる人に自ら進んで隷属しようとする。ほめて育てようとする人たちは、おそらくは無自覚のうちに、そうして子どもを支配しようとしている。(p94〜95)

 

たしかにそういう可能性は考えられる。視点を変えるとこういう見方もできるのか。「最悪のシナリオ」ということで、そこまでいかない場合も当然あるだろうが・・・。では、どうすれば良いのか?

 

ほめるのではなく、共に喜ぶこと。何かがうまくできたなら、一緒に喜んで、子どもが感じている喜びを増幅する。そうして、その子が自分の内側から感じる喜びを引き出してあげるのだ。

何かを為したことがもたらす喜びが、ほめることによって、ほめられた喜びにすり替えられてしまう。もっと子どもの内側から湧いてくるものをだいじにしなくてはいけない。(p95) 

子どもの視線で共に喜ぶことということかなあ。ほめることと似てるけど違うのだなあ。ちょっと難しい。でも大事なことだ。

 




f:id:gsg48566:20170419125403j:image


 

哲学な日々 考えさせない時代に抗して

哲学な日々 考えさせない時代に抗して

 

 

 

読書メモ『補欠廃止論』

図書館で、「セルジオ越後」の名前に惹かれて『補欠廃止論』(セルジオ越後   ポプラ新書    2016年)という本を借りてきた。

僕には、何十年も主張し続けてきたことがある。それは日本サッカー、いや団体スポーツを強くするためには、部活動などの子どもの教育現場から「補欠制度」を撤廃しなくてはならない、ということだ。(p14)

 

部活という教育の現場に、補欠が存在するのはとんでもないことだ。学校で「君はテストの点数が悪いから補欠です。テストの点数がよくならない限りは、授業は受けられませんが、毎日登校して仲間を応援してください」と言われたら、どう思うだろうか?本人や親は烈火のごとく怒るだろう。

しかし、同じ教育目的の部活動には、補欠制度が存在する。これはおかしいと思わないのだろうか?

そういう意味で僕は、補欠制度は差別に値すると考える。(p16) 

 

我が家の子供も中学生時代、サッカー部に所属していたがずーっと「補欠」だった。テレビで甲子園の高校野球を見ると、スタンドにユニホームを着た多くの野球部員がいる。下級生は別として上級生はベンチに入れないので「補欠」なんだろう。(セルジオ越後さんは、「ベンチにいて試合に出られる可能性のある人は「控え」で、スタンドにいて試合に出られない人を「補欠」」(p17図)と分けて説明している。)

 

この本のタイトルは、「補欠廃止論」という事で、日本では常識と思われていることを鋭く指摘している。そういう意味でインパクトがあるが、より求めているのは日本のスポーツ全体のあり方だと思う。

 

この記事を書いているときも、高校の登山部の安全講習で遭難があり、多くの高校生が亡くなったというニュースが流れていた。本書では、学校の部活動のあり方についても現状の改善を求めている。教員の負担も大きいようだ。学校の枠を外した地域のクラブの利用など多角的な方法を勧めている。

 

私見だが、人々は、「学校」に多くを望みすぎている、あるいは依存しすぎているのではないだろうか。明治以降、国家主義の担い手を育成したのは、「教育勅語」に代表される学校教育だと思っている。様々な角度から「学校」というものを見直していくことが必要だと思う。

 

本書の最後でセルジオ越後さんは、こう書いている。

僕が理想とする未来ーーー。それは、子供たちの世界から補欠制度を廃止することであり、体を動かすことの楽しさを知り、週末は家族や友人たちとスポーツ観戦するようになることだ。スポーツが、決して体育や習い事の延長としてのものではなく、生活の一部になっているのが理想だ。(p151〜152)

 

「生活の一部」というのがいいなあ。 

 

 

frosty_morning

 

 

(096)補欠廃止論 (ポプラ新書)

(096)補欠廃止論 (ポプラ新書)

 

 

 

 

「それがそうなのではなく、あなたがそう見てる」

 為末大さんの無料メルマガが、たいへん参考になるなあ🎵と思ったので、早速引用させていただく。

 

 

為末さんは、メルマガの最初で、メジャーリーグに行った野茂英雄さんの例をあげておられた。野茂さんの成功をきっかけとして、続々と日本人選手がメジャーリーグへ挑戦していった。

 

  そういえば、体操競技でもむかしは難易度「C」が最高だった時代がある。「C」の中でも難しいのは「ウルトラC」と言われていた。最近では、難易度「F」・「G」まであるらしい。

   陸上の100mでは、かつて誰かが9秒台の世界記録を出し、次々と9秒台の記録が出ると、今では10秒台が普通の記録のように言われている。

 

マインドセットを日本語で訳しているものを見ると、思い込み、先入観、刷り込み、などがあります。要は自分が判断をしたり行動をすることの前提になっている(おそらくは無意識の領域で)考え方や見方の癖と言えるのではないかと思います。  

 

なんとも不思議だ。ある種のイメージなのだろうか?  人の行動や思考に対する影響は大きいものがあるようだ。 

 

記事では、

じゃあ、そのマインドセットを変えればいいじゃないかと思うのですが、マインドセットが変わるということはまさに自分にとっては世界が変わるということですから、なかなか簡単ではありません。難しいのは承知の上で、マインドセットはどんなプロセスを経て変わっていくのか、現役時代の経験から、どういうプロセスだったかをまとめてみました。  

として、6つのポイントをあげられている。

 

先日の『仏教思想のゼロポイント』に書いてあった「物語の世界」に気づくかどうかと、マインドセットに気づくかどうかとは、何か共通しているような気がする。まずは「気づく」ことが第一歩だなあ。「それがそうなのではなく、あなたがそう見てる」と気づくことができるかどうか。

 

 

その他のツイートも参考に。

 

 

Time out from the sun at Grand Haven Beach.  - vertorama

読書メモ『日本人はどこまで減るか』

『日本人はどこまで減るかー人口減少社会のパラダイム・シフト』(古田隆彦 幻冬舎新書 2008年)読了。図書館で何気なく手にとって読んでみたが、タイトルから予想したものより「深いい」本だった。

 

①  少子・高齢化で人口が減る

②  子どもが減り、老人が増える

③  出生率が上がればベビーの数は増加する

④  年金保険料の負担者が減って年金制度が崩壊する

⑤  労働力が減ってGDP(国内総生産)が低下する

⑥  消費人口が減って消費市場が縮小する

⑦  GDPが伸びないから個人所得も伸びない

⑧  少子化の原因は結婚・出産形態の変化である

⑨  少子化対策で人口は回復できる

⑩  日本人は900年後に絶滅する

(p8) 

 この10項目を読んで、⭕「正しい」、❌「誤っている」で答えるとしたらどのようになるだろうか?

私は、①〜⑨は、⭕にして、最後の⑩だけ、❌にした。

 

しかし、本書を読んで驚いた。①〜⑩の全てが、❌だというのである。理由を読んで、それはちょっとという部分もあったが、概ね同意してしまった。

 

人口減少の原因はどこにあるのでしょうか。高名な人口学者は「少子化のためだ」と主張し、新聞やテレビも「少子・高齢化のためだ」ときめつけています。が、いずれも現実を見誤った見解にすぎません。

人口の増減は、海外からの転出入がない限り、出生数と死亡数で決まります。出生数が死亡数より多ければ増え、少なければ減ります。「はじめに」で述べたように、少子化でいくら出生数が減ってもベビーはゼロにはなりません。なにがしかが生まれる以上、人口は前年より増えます。他方、高齢化で寿命が延びれば、死亡者は確実に減っていきますから、前年より減少分は減るはずです。

少子化でも出生数が存続し、高齢化で死亡数が減っていくとすれば、出生数と死亡数の差はプラスになる可能性があります。つまり、少子・高齢化だけで人口が減るとは限りません。増えることさえあります。「詭弁」といわれそうですが、物事を正確に表現すれば、「少子・高齢化で人口が減る」とはいえないのです。(p22〜23)

(中略)

このように少産化の背景には、年齢構成の変化や国民一人ひとりの生活意識の変化といった事情があり、また多死化の背景には、近代的な生活様式や現代医学の限界があります。要するに人口が減るのは、出生数が減って死亡数が増加する「少産・多死化」のためであり、「少子・高齢化」のためではありません。これが人口の減る直接的な理由です。(p25)

 

 

 

動物の個体数抑制行動はどうなのか?

ライオンは、

タンザニアセレンゲティ草原に生息するライオンは、成体のオス一匹と複数のメスで一つの群れを作り、なわばりを作って獲物を捕らえている。この群れのオスが他のオスによって追い出されて入れ替わると、新しいオスは前のオスの子をすべて殺す。(p50)

下記のブログ記事によると「子」は、「1歳未満」に限られているようだが、それにしても驚いた。

africanwildlife.blog.fc2.com

 

 

本書では、過去の人口増加の歴史から、新たな次期文明の出現を期待した一章で終了する。この指摘は、本当に予想外だった。何かワクワクしてくる。福島原発問題や南海トラフ地震を考えると暗くなってしまうが、こういう視点もありかな、と思ってしまう。

 

 

17460035

 

日本人はどこまで減るか―人口減少社会のパラダイム・シフト (幻冬舎新書)

日本人はどこまで減るか―人口減少社会のパラダイム・シフト (幻冬舎新書)

 

 

読書メモ『仏教思想のゼロポイント』

仏教思想のゼロポイント』(魚川祐司 新潮社 2015年)再読。

う〜む。むずかしい。少しずつ分かりやすいところからメモしていこうと思う。

 

まず「輪廻」ということについて。

「輪廻」というと私たちは一般的に、ある「人」が死んで、それが別の存在として生まれ変わるという「転生」の問題ばかりを考えてしまいがちだが、実のところ輪廻というのは、そうした転生の瞬間だけに起きるものではなくて、いま・この瞬間のあなたにも(仏教の立場からすれば)、現象の継起のプロセスとして、生起し続けているものである。転生というのは、そのことのわかりやすい現れに過ぎない。(p97)

 

輪廻というのは、いつかどこかで「自分」が死ぬときに起こる神秘現象ではなくて、いま・この瞬間に生じ続けている「現実」だ。だから、それを乗り越えるためには、私たちは何よりもいま・ここに起こっている現象を、目を背けずに「如実知見」しなければならない。

ゴータマ・ブッダ仏教の本筋は、このように物事を「ありのままに知る」ことによって、苦なる現象の継起(=輪廻)から離脱するということにあるのであって、そのことと、単なる転生ではない、現象の継起としての輪廻の理解とは、もちろん密接に関わっている。このことは仏教を理解する上でたいへん重要なポイントなので、しっかりと確認しておかねばならない。(p98〜99)

 

生物の本を読むと、人間はおよそ60兆の細胞で成り立っているらしい。(最近は、37兆とも言われているようだ。)その細胞は、様々な周期で生死を繰り返しているという。従って、身体的に言えば、昨日の私と今日の私とは、全く同一とは言えないのだ。そういう面から考えると日々輪廻、瞬間瞬間が輪廻ともいえる。身体が輪廻するのに「私」は同じなのか?という問題が生じるがそれはまた別に多くの課題を含んでいる。

 

 著者の魚川祐司さんは、ツイッター上では「ニー仏」さんとして知られている。そのツイートのひとつがこれなのだが、ウ・ジョーティカ師の言葉はいろいろ考えさせられる。

Untitled

 

 

仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か

仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か