ガラガラポン日記

複雑になってしまった問題を、一度ゼロにして、考え直してみる。

読書メモ『原発事故はなぜくりかえすのか』

『プロメテウスの罠 2』を読んで、高木仁三郎さんという名前とその人の書いた『原発事故はなぜくりかえすのか』( 岩波新書 2000年)という本を知った。

 

その本は、1999年に起きたJCO臨海事故をきっかけとして、ガン闘病中の筆者が、文字通り最後の力をふりしぼって書かれた本だった。

私事で恐縮ですが、私は今、がんの闘病中で、さまざまな苦しみに襲われています。しかし、そんな私にペンをとらせざるを得ないようなものが、今の状況の中にあるのです。

したがって、この本では細かい技術論をいろいろ議論するのではなく、根本にある問題は何なのか、日本人は原子力技術というものをどう受けとめているのか、それにどう接しているのか、さらには原子力技術だけでなく、日本の企業や日本人個人個人が技術というものをどのように考え、安全についてどのように思っているのか、生き方の中でそれらの問題がどのように処理されようとしているのか、というようなことを論じようと思います。これは日本人の文化論にもかかわる問題かと思います。(p5〜6)

 福島原発事故から6年以上たった現在も、原子力をとりまく状況は、本書で指摘された課題をクリアしているとは思えない。原子力に絡む重層的な構造は、いささかも揺らいでいないことに驚くばかりだ。

 

一つの事例として、「公益性」を挙げている。高木氏が代表をしていた「原子力資料情報室」が、法人申請をしたときのこと。(当時(1994年頃)は、NPO法がなかったので、科学技術庁に法人申請した。現在は、NPO法人として活動中。)

このときに私が痛感したのは、この役人たちと我われとの間には公益性ということについての認識に大きなギャップがあるということです。役人たちは、公益性を定義するのは国家の側であり、国家の役人がやっていることが公益に則することであって、民間の人間がこれに異を唱えるのは公益に反するということを、ほとんど無前提に言うのです。

(中略)

要するに、国が原発推進ということを言っているときに、それに賛成しない、原発推進と言わないのはけしからん、そのような批判勢力に公益性はない、こういう論理なのです。

(中略)

人びとが求めるものは何かというところから出発するのではなく、国家の法律の中にどう定義されているか、それを守る機関はどういう組織であるのかから出発して、その組織に従うことが公益であるみたいな、頭からの公益論ができてしまっている。(p119〜121)

 「原子力資料情報室」というのは、脱原発を表明しているため、批判派と見なされていたようです。しかし、原子力行政を批判することによって、より健全なエネルギー政策が提言できるのではないかという主張をして、科学技術庁も認めるようになったようですが、「公益性」という基本的なところで大きな意識のずれがあったようです。私見ですが、この組織に従うべきという「頭からの公益論」は、行政だけでなく、企業や宗教団体などの大きな組織にも見られるように思います。

 

最後に、高木氏が自身の「偲ぶ会」へメッセージを書き残していました。謂わば遺言のようなものです。それが本書の最後に載っています。一部だけ引用させていただきます。

 

残念ながら、原子力最後の日は見ることができず、私の方が先に逝かねばならなくなりましたが、せめて「プルトニウム最後の日」くらいは、目にしたかったです。でも、それはもう時間の問題でしょう。すでにあらゆる事実が、私たちの主張が正しかったことを示しています。なお、楽観できないのは、この末期症状の中で、巨大な事故や不正が原子力の世界を襲う危険でしょう。(p182〜183)

 

このメッセージが書かれたのは、2000年ですが、その11年後に福島原発事故が発生してしまいました。そしてプルトニウムは、現在では47トンも存在するのです。

 

プロメテウスの罠 2

プロメテウスの罠 2

 

 

 

原発事故はなぜくりかえすのか (岩波新書)

原発事故はなぜくりかえすのか (岩波新書)

 

 

Facebook 「ZEKKEIJapan」より。
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カリール・ジブランの訳詞

タイトルに引かれて、『よく生きる智慧』(柳澤桂子 小学館 2008年)という本を図書館から借りてきた。てっきり、随筆集かと思ったら、最初の方だけが随筆で、そのあとはほとんど、カリール・ジブランの『預言者』という詩集の訳詞だった。

だれ? カリール・ジブラン?知らんがな。

(何でもこの『預言者』という本は、全世界で二千万人が読んだ大ベストセラーだそうです。全く知らなかった。検索してみると、カリール・ジブランというのは、英語読みらしい。Wikipediaでは、ハリール・ジブラーンと表記されていた。)

 

その訳詞の中から、一つの詩を引用させていただきます。

 

【死について】

 

あなた方は、死の秘密を知りたがる。

だが生そのもののなかにそれを探し求めなければ、

どのようにして死について知ることができるだろうか?

夜でも目が見えるのに昼間は目の見えないふくろうには、

光の謎を解くことはできない。

ほんとうに死の魂を見たいのなら、

生きている肉体をよく見てごらんなさい。

なぜなら、ちょうど川と海がひとつながりであるように、

生と死はひとつだから。

 

(中略)

 

死ぬということは風のなかに裸で立ち、

太陽のなかに溶け込んでしまうということではないのか?

呼吸が止まることは、

休みない潮の満ち引きから呼吸を解放してやることでしかなく、

呼吸は空へと昇り広がって、誰にも邪魔されることなく、

神を探し求められることではないだろうか?

あなた方がこころから歌えるのは、

沈黙の川の水を飲んだときだけだ。

登りはじめることができるのは、

山の頂上にたどり着いたときだ。

そしてあなた方の手足が大地にもどったときにはじめて、

ほんとうに踊ることができるのだ。

(p152〜154)

 

 「死」などについての質問に、ブッダは、沈黙で答えたとされる。いわゆる「無記」ということだ。それと比較すると、この詩は、ブッダと主旨は似ているが、より親切にやさしく答えてくれているように思われる。

 

よく生きる智慧~完全新訳版『預言者』

よく生きる智慧~完全新訳版『預言者』

 

 

 ↓Facebook「花の写真館」より。

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長田弘さんの詩、二篇

長田弘(おさだ  ひろし)さんという詩人を最近知った。

 

むかし、「詩」は、天賦の才がないと書けないのだ、と聞いてから、何となく「詩」とは縁遠くなっていた。最近、『「しないこと」リストのすすめ』を読んで、そこに長田弘さんの詩が引用されていた。それに刺激されて、図書館から、氏の本を数冊借りてきた。その中の『詩の樹の下で』(長田弘 みすず書房  2011年11月)、『なつかしい時間』(長田弘 岩波新書 2013年)から、詩二篇を引用させていただきます。

「詩」って、いいね。

 

【冬の日、樹の下で】

 

あらゆるものには距離があるのだ。あらゆるものは距離を生きているのだ。

そして、あらゆるものとのあいだの距離を測りながら、人間はいつも考えているのだ。幸福というのは何だろうと。幸福を定義してきたものは、いつのときでも距離だったからだ。

移ってゆく日差しとの距離。小さな花々との距離。川との距離。丘との距離。

生まれた土地との距離。

海との距離。砂との距離。潮の匂いとの距離。遠い国の、遠い街の、遠い記憶との距離。亡き人との距離。

星との距離。夜啼く鳥との距離。森との距離。

素晴らしく晴れわたった、冬の或る日のこと。

葉という葉を殺ぎ落として立っている大きな樹が、樹の下で、幸福について考えていた一人の小さな人間に話しかけた。

何もないんだ。雲一つない。近くも遠くもないんだ。

無が深まってゆくだけなんだ、うつくしい冬の、窮まりない碧空は。

幸福? 人間だけだ。幸福というものを必要とするのは。

 

(『詩の樹の下で』p82〜83)

 

 【イツカ、向コウデ】

 

人生は長いと、ずっと思っていた。

間違っていた。おどろくほど短かった。

きみは、そのことに気づいていたか?

 

なせばなると、ずっと思っていた。

間違っていた。なしとげたものなんかない。

きみは、そのことに気づいていたか?

 

わかってくれるはずと、思っていた。

間違っていた。誰も何もわかってくれない。

きみは、そのことに気づいていたか?

 

ほんとうは、新しい定義が必要だったのだ。

生きること、楽しむこと、そして歳をとることの。

きみは、そのことに気づいていたか?

 

まっすぐに生きるべきだと、思っていた。

間違っていた。ひとは曲がった木のように生きる。

きみは、そのことに気づいていたか?

 

サヨウナラ、友ヨ、イツカ、向コウデ会オウ。

(詩集『死者の贈り物』みすず書房)

(『なつかしい時間』p225〜226)

 

たまたま引用した写真の樹(↓)が、おもいっきり曲がっているのは、偶然です。(笑)

 

詩の樹の下で

詩の樹の下で

 

 

 

なつかしい時間 (岩波新書)

なつかしい時間 (岩波新書)

 

 ↓Facebook 「ZEKKEIJapan」より。
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読書メモ『「しないこと」リストのすすめ』

もう秋も終わり、冬がやって来る。ここ北海道は、時々雪が降ってます。車のタイヤも、スタッドレスタイヤに変えました。

 

今日は、『「しないこと」リストのすすめ〜人生を豊かにする引き算の発想』(辻 信一  ポプラ新書 2014年)を読み終えたので、気になったところをメモしてみました。

 

NGOナマケモノ倶楽部

「鎌田實の「ウンコ平和論」」(参考:うんこにこだわる学者「人間を知りたければ、うんこを探れ」(NEWSポストセブン) 子どもだけでなく大人にも大人気の「うん…|dメニューニュース(NTTドコモ))

N.F.S.グルントヴィ

アレクサンダー・テクニーク

最首 悟(さいしゅ さとる)」

 

まだまだ「しらないこと」が、一杯あるなあ。「しらないこと」リストでも作るかな?

 

「はじめに」で、長田弘さんの詩「ねむりのもりのはなし」の中の「あべこべのくに」に関連する部分が引用されていた。↓

いまはむかし    あるところに

あべこべの    くにがあったんだ

はれたひは    どしゃぶりで

あめのひは    からりとはれていた

 

つよいのは    もろい

もろいのが    つよい

ただしいは    まちがっていて

まちがいが    ただしかった

著者の辻さんは、「ぼくたちは、これまで、「あべこべのくに」に住んでいたのかもしれない。」(p6)と書いている。なるほどですねえ。

 

また、別の章では、落語の小咄を引用している。

としより「いい若者がなんだ。起きて働いたらどうだ」

若者「働くとどうなるんですか」

としより「働けばお金がもらえるじゃないか」

若者「お金がもらえるとどうなるんですか」

としより「金持ちになれるじゃないか」

若者「金持ちになれるとどうなるんですか」

としより「金持ちになれば寝てくらせるじゃないか」

すると若者「はあ、もう寝て暮らしてます」

               (「怠惰の思想」『多田道太郎著作集』第四巻)(p46)

 微妙に論点がずれているところが、笑いを誘うのかなあ。

 

またまた別の章では、永六輔さんのことを紹介している。

永六輔さんはある時、ふと決意して、駆け込み乗車をしないことにしたそうだ。一見ささいなことに見えるかもしれない。しかし、これにぼくは直感的に永さんならではの美意識と知恵を感じた。そして、早速ぼく自身の「しないこと」リストにも、「駆け込み乗車をしないこと」を加えることにした。(p71〜72)

これは、何となく分かるような気がする。

 

最後の章では、【最後にもう一度、あべこべの国へ】と題して↓

「すること」から「しないこと」へ、「する」から「いる」へ、「する」から「なる」へ。「べてるの家」のように、ぼくたちの暮らしの中にもさまざまな「反転症状」が起こっていくといい。

穀物や野菜は「つくる(生産する)」のではない、「なる」のだ。生きるものは「成長させる」のではない、「成長する」のだ。「大きくする」のではない、「大きくなる」のだ。子どもは「育てる」のではない、「育つ」のだ。病は「治す」のではない、「治る」のだ。

だからといって、もちろん、農、教育、医療という人間の営みが、不要になるということではない。もう一度、「なる」という原点に戻った上で、自分たちが何を「する」べきなのかを、考え直そうというのだ。

 

そのために、ぼくたちは自分の「する」を再検討してみたほうがいい。すべてのものが潜在的に持っているはずの「なる」という可能性を押し殺してしまうような「する」になっていないかどうか。すべての人々の「なる」芽が、過剰な「する」によって摘みとられる、花のない、さびしい「するする社会」になっていないかどうか。

 

やり過ぎてはいないだろうか。水をやり過ぎてはいないか。肥料をやり過ぎていないか。食べ過ぎていないか。がんばり過ぎていないか。急がしていないか。かえって教えないほうが、耕さないほうが、薬を飲まないほうが、励まさないほうがいいのではないか。

 

そして、余計なところはどんどん引き算していけばいい。するとそこに眠っていた「なる」力が働き始める。それは、適度な「する」力と、「しない」力が、「なる」力を引き出したのだ、とも考えられる。これらの力が調和するところ。そこにぼくたちの「いる」場所がありそうだ。(p215〜216) 

 

 少し長くなってしまった。「べてるの家」という言葉が出てきたとき、何か共通するものを感じた。

個人的には、今の日本、何かがおかしい、と感じている。あまりにも急ぎすぎ、細かすぎて、余裕が感じられない。息苦しい世の中になってしまったナア、という気がする。自分なりに「しないこと」リストをつくって見ようかな。そして、70歳ぐらいになったら、「もう十分生きたので、生きないこと」も選択してみたいと思った。まあどうなるか先のことは分からないが・・・。

 

 

 ↓Facebook 「東京カメラ部」から。
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再び、Twitterから。

 

これは、本当にそう思う。「ただそんな生活がしたいだけ」なんです。

 

 

人は、表情や見かけだけでは分からない。こちらが思っている通りの人もいれば、まったく別な心の人もいる。ただ口に出さないだけで、心の中は分からない。こればかりは、何とも分からない。

 

明日は・・・いよいよ平地にも冬がやって来るようだ(((^_^;)

 

Facebook 「花の写真館」より。

 


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Twitterで癒されている(^_^)

閑話休題

Twitterは、主に情報収集のために利用している。自分から発信することは少ない。

Twitterを眺めていると、きれいな花や景色が流れてくる。そして、心に響く、言葉がある。自分がうちひしがれているとき、これらの写真や言葉を見ると癒される。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最後に自分のものを。

読書メモ『ビッグデータの正体』

 『ビッグデータの正体〜情報の産業革命が世界のすべてを変える』(ビクター・マイヤー=ショーンベルガー、ケネス・クキエ、斎藤栄一郎訳  2013年 講談社)を読了した。

 

あるブログ(「古本屋の殴り書き」)で紹介されていた本だった。

 

読んでみて、驚いた。ネットも含めて世の中のあらゆる情報が集められ、膨大な数式などを基に相関関係などが炙り出され、それが大きなビジネスチャンスになっている。今、このブログを見ていることもすべて情報として集められている、ということに驚いた。街中にある監視カメラどころの騒ぎではない。

本書では、 映画「マイノリティ・リポート」が取り上げられているが、近未来の犯罪予防が、現実になるかもしれないのだ。

ビッグデータは大変革の始まりを告げるものだ。望遠鏡の登場によって宇宙に対する認識が深まり、顕微鏡の発明によって細菌への理解が進んだように、膨大なデータを収集・分析する新技術のおかげで、これまではまったく思いもつかぬ方法で世の中を捉えられるようになる。やはりここでも真の革命が起こっているのは、データ処理の装置ではなく、データそのもの、そしてその使い方だ。(p18〜19)

正直、イメージがつかめないが、何やらまったく別次元の世界が広がりつつあるらしい。

水道橋は都市発展に道を開き、印刷機は啓蒙思想の普及を促し、新聞は民族国家の台頭を後押しした。しかし、元々、こうしたインフラは、水や知識の流通のために生まれた。それは電話もインターネットも同じだ。一方、データ化は人間の理解力を基本的に向上させるものだ。従来、世の中は自然現象や社会現象といった出来事の連続と説明されてきたが、ビッグデータ的に見れば、情報があふれる空間そのものなのだ。

100年以上も前から物理学者らは、すべての礎となっているのは原子ではなく情報だと訴えてきた。どう見ても凡人には理解できそうにない話だ。それがデータ化で変わる。ある存在の、目に見える部分と目には見えない部分をはるかに大きなスケールで把握・計算し、行動できるようになったからだ。

言い換えれば、世の中は情報の塊、つまり膨大なデータの集まりということになる。そのような視点は過去に例がない。(p149)

 「すべての礎となっているのは原子ではなく情報だ」というのもよく分からないのだが、発想を変えることによって見えてくるのかなあ?

 

ビッグデータのマイナス面も指摘されている。その一つが「プライバシーの麻痺」と表現されている。

従来、プライバシー保護のために使われてきた3大対策が、「個別の告知と同意」、「データ利用拒否を本人が通告できる制度(オプトアウト)」、「匿名化」だ。ところがビッグデータ時代には、この3大対策の効果が大幅に薄れてしまう。現時点でもプライバシーが侵害されていると感じるユーザーは多い。(p233〜234)

 

この本を読むと、時代が凄いスピードで変化していると感じる。人々の思考方法も、因果関係中心から、相関関係中心へ変化せざるを得なくなっている。後世の人から見ると、現代は、大きな変化を遂げた時代と言われるのかもしれない。

 

 

 

www.cinematoday.jp

 

 

ビッグデータの正体 情報の産業革命が世界のすべてを変える

ビッグデータの正体 情報の産業革命が世界のすべてを変える