ガラガラポン日記

複雑になってしまった問題を、一度ゼロにして、考え直してみる。

「人生を質入れしない」

いつも拝見しているブログで『人は死ぬから生きられる』という本が紹介されていた。しばらくして図書館で借りることができた。読んでみて、実に興味深かった。

 

科学者である茂木健一郎さんと僧侶である南直哉さんの対談。

 

茂木:霊魂や死後の世界があるかどうかということは、日々一瞬一瞬の喜怒哀楽の間尺と全然違っていて、それがどっちに転んだとしても日々の苦しみとか切なさとかは救われないというか、それで救われると思っちゃうことによって、逆に生きることの充実感から外れていっちゃうのかもしれないですね。

 

南:そのとおり。一番まずいのは、イデオロギーとか宗教が生を空虚にする場合があること。信じれば救われるというように、いわば生きることを質入しちゃう。

 

茂木:生きることを質にいれとけば、とりあえずは安心だから。

 

南:そう。質入された相手は、いつでも受け出せますからみたいなことを言うんだけど、決してそうはならない。(p161)

 

「人生を質入れする」という意味がよく分からなかったので、ネットで検索したところ、下記の記事を見つけた。

 記事:「Logues 茂木健一郎講義:「他人と接して生きる実感を得る」(書き起こし)」

 

上の記事によると「質入する」(南直哉)ということは、「自分の人生を何らかの目的で規定すること」(南直哉)らしい。そして「生きるということは或る特定の目的には回収され得ないことなんだということを徹底的に追求した人がブッダなんだ」(南直哉)という。

 

まだよく分からないけど・・・。

イデオロギーとか宗教が生を空虚にする場合がある」という部分とつながるのかな?

 

「信じれば救われる」というのは、たしかに性に合わないけど、「自分の人生を何らかの目的で規定すること」は多分にありうることかな。

その辺りを注意しなければ⚠

 

 

 

 

人は死ぬから生きられる―脳科学者と禅僧の問答 (新潮新書)

人は死ぬから生きられる―脳科学者と禅僧の問答 (新潮新書)

 

 

 

お金と宗教団体

わたしは、在家宗教団体に寄付(供養)をする、ということに疑問を抱いている。初詣などで小銭を投げ入れる程度なら、しょうがないかな、と思うけど。

大きな在家宗教団体になると、普段でも本や雑誌、機関誌などを購入し、毎月小さな金額でも継続することによって少なくない金額を教団に支出していることになる。それらとは別に、ある在家宗教団体では、年に1回、「財務」と称して寄付(供養)を呼び掛けている。生活に余裕のある人だけならまだしも、そうでない人も強制ではないが自主的に寄付(供養)しているようである。身近にそのような例を見ているのでなお一層疑問が湧いている。

 

たまたま『初期仏教〜ブッダの思想をたどる』(馬場紀寿 岩波新書 2018年)を読んでいたところ、古代インドで、宗教団体への贈与という記載があり興味深く拝見した。(ちなみに、この書物の本来の趣旨は、副題にもある通り、ブッダの思想をたどる、ということですので念のため。)

 

在家信者に対する五戒、八斎戒の説明のあとに

贈与とともに、他者への倫理と定期的な禁欲が、天界に再生する道であるというのが、未信者に対する第一段階の教えである。仏教以前から存在していた生天信仰を、祭式から切り離し、贈与と良い習慣をその条件とすることによって「倫理化」しているのである。(p117)

 

また別のところでは、紀元前一世紀頃からの、交易によって栄えた商人とそれまで遊行生活を送っていた仏教の出家教団との関係が述べられている。

 

紀元前一世紀頃になると「ヒッパロスの風」と呼ばれた季節風の発見により、インド西岸部とローマとを結ぶ海上交易が隆盛した。そして、象牙、香料、宝石などの貴重品を求めるローマ帝国との交易によって莫大な富を得た商人階級の台頭を背景として、仏教の出家教団は変容していった。

西岸部にあった交易港とガンジス川流域とを結ぶ通商路には、名高いアジャスター、カンヘーリー、ナーシクなどの石窟寺院が建てられた。これら石窟寺院への寄付者として、さまざまな商人や金融業者の名が碑文に刻まれている。

また、ちょうどこの時期のサータヴァーハナ朝の碑文からは、職人組合に預けられた資金の利子や農地といった定期的な収入源を、出家教団が所有していたことが知られる。こうして定期収入が生じるようになると、個々の出家教団はなんらかの形で恒常的な経営が行われる組織へと変貌する。もともと遊行生活をする出家者のための集いだった出家教団は、資産を運用する組織へと変わっていったのである。荘園を管理し、金融業を営み、建築物を維持しながら永続的に暮らせるよう運営される出家教団が増え始めた。

 

そのような恒久財源にもとづく「僧院」は遅くとも紀元前一世紀に成立し、時代が下がるにつれて、その数を増していった。一年を通じて千人規模の出家者が生活できる大僧院がしだいに現れ、ナーランダ僧院やヴィクラマシーラ僧院といった有名な学問寺が成立していくこととなる。(p47〜48)

 

 出家者が仏教の研鑽に専念できたという点では、多くの点で評価できると思う。

一方で、資産を持つ大きな集団は、自然と現実の経済の仕組みのなかに取り込まれていくようだ。

 

2000年経った現代ではどうだろうか。様々な方法で収入を得ている教団は、「資産を運用する組織」へと変わっているようだ。ましてや、寄付(供養)によってご利益がある、という人がいたらそれは「生天信仰」の復活だ。

いずれにしても人の行動というものは、昔も今も変わらないんだなあ、と思う。

 

 

 

初期仏教――ブッダの思想をたどる (岩波新書)

初期仏教――ブッダの思想をたどる (岩波新書)

 

 

 

「祈る」

祈る」という行動は、多くの人間にとって、素朴な気持ちの表れのようだ。私も小学生の頃、創価学会に入信してからは、「祈る」ということが日常茶飯事だった。しかし、ここ数年は、否定的である。だからといって、他の人々の「祈る」という行為を積極的に否定はしない。

 

「祈る」人たちの気持ちは分からないでもないが、たぶん効果は期待できないだろうなあ、と思う。もし、何らかの成果があったとしても、それは偶然そうなったというしかない。だからといって、「祈る」ということを頭から否定しても反発を食らうことだろう。私自身の経験から推測すると、その人たちにとっては、「祈る」ということで心の安定が得られることが大事なのだろう。

 

私は、長年、「祈る」ことが宗教であり仏教であると思っていた。そのために数多くの題目を唱えた。しかし、数年前に会社を早期定年退職したことをきっかけに仏教を学び直してみると、「祈る」というのは仏教の一部分であり本筋ではないことを思い知らされた。

 

私の尊敬する人は、

(仏教を)神仏による救済という後世付け加わった潤色を取り除く観点で考え直したい。(遺稿集(非売品) p191)

 

呪術と仏教を明確に切り離し、たて分けていく必要があると思います。(同上 p125) 

と述べている。

(この引用文の前後の文章には、仏教を人間学としてとらえようとされた氏の考え方などが書かれているが、今回は省略させていただく。)

 

「祈る」という行為には、ある程度、「ご利益」という言葉がついてくるようだ。この「ご利益」部分を担当するのは、「仏教以外」のもので十分ではないだろうか。最近はそう思うようになっている。(ちなみに、今の創価学会員の「祈り」から、「ご利益」を期待する部分を差し引くと、どのくらいそれ以外で残るだろうか?興味深い。)個人的には、「自然」を対象にして祈るのがいいかなと思っている。太陽や月や星、あるいは雄大・秀麗な山や広大な海や大きな川など。人工物はちょっと遠慮したい。

 

では、「仏教」とは何?と聞かれそうである。

正直まだ暗中模索である。今のところ、初期仏教の「諸行無常一切皆苦諸法無我」そして「縁起」などが頭をよぎるがなかなかまとまらない。

「生・老・病・死」にどう向き合うか。

現実の世界はいつ何が起きるかわからない。

「目覚めた人」と言われたブッダは、何に目覚めたのか?

 

 

 

ブッダ(たち)の呼び名

 

 

ブッダは、初期仏教では「目ざめたひと(ブッダ)」という尊称で表記されることが多いのだが、他の表現はあるのだろうか?

 

ブッダのことば〜スッタニパータ』(中村元 訳  岩波文庫)を読んでみた。

いくつかありました。

 

「眼ある人」

「知慧のすぐれた人」

「邪悪を払い除いた人」

「太陽の裔(すえ)である偉大な仙人」

「ことば美(うる)わしき師」

「師」など。

 

ちなみに、大乗仏教(北伝仏教)の「法華経」ではどうだろう?

『梵漢和対照・現代語訳   法華経  上』(植木雅俊訳  岩波書店  2008年)を引っ張り出して、第1章(序品)と第2章(方便品)の途中までを見てみました。

いろいろな表現がありますね。

 

獅子(ライオン)のように最も勝れた人間の王であるブッダたち( p17) (漢訳:諸仏、聖主獅子)

人間の指導者〔であるブッダ〕(p15)  (漢訳:導師)

世間の指導者〔であるブッダたち〕(p21)

勝利者の王の中の王〔であるブッダ〕(p21)  (漢訳:諸法の王)

勝利者の王〔であるブッダ〕(p21)

牡牛のように勝れた人〔であるブッダたち〕(p25)

月と太陽からなる燈明”(日月燈明)という名前の勝利者〔であるブッダ〕(p43)

生きとし生けるものの指導者〔であるブッダ〕(p43)

世間の保護者〔であるブッダ〕(p43)

勝利者である偉大なる聖仙〔であるブッダたち〕(p49)

人間の王の中の王〔であるブッダ〕(p49)  (漢訳:聖主法の王)

太陽のように輝かしい人〔であるブッダ〕(p87)  (漢訳:慧日大聖尊)

最も優れた太鼓の音を持つもの〔であるブッダ〕(p89)

人間の中で最高の人〔であるブッダ〕(p89)  (漢訳:諸仏世尊)

 漢訳の方は、「仏」「世尊」と訳されることが多いような気がする。様々な形容詞があっても省略されていることが多いように感じた。

 

法華経 上』の中で個人的に注目した部分があった。

その時、その情況で“月と太陽からなる燈明(日月燈明)”という名前の正しく完全に覚られた如来で、尊敬されるべき人(阿羅漢)で、学識と行ないを完成された人(明行足)で、人格を完成された人(善逝)で、世間をよく知る人(世間解)で、人間として最高の人(無上士)で、調練されるべき人の御者(調御丈夫)で、神々と人間の教師(天人師)で、目覚めた人(仏陀)で、世に尊敬されるべき人(世尊)が、この世に出現された。(p31)(太字は管理者による。)

 これは、仏の十号と言われているようだ。

 

この中の「善逝(ぜんぜい)」に注目した。

Wikipediaでは↓

善逝(ぜんぜい、sugata)- 智慧によって迷妄を断じ世間を出た者。好去、妙住ともいう。善く因より果に逝きて還らぬという意味で、無量の智慧で諸の煩悩を断尽し世間を脱出した者をいう。

植木雅俊氏は、「人格を完成された人(善逝)」 と訳されている。

 

 

 

 初期仏教であれば、ブッダは「尊敬される人」程度だったのが、法華経では、更にレベルアップして「理想化」「神格化」しているような気がする。

 

 

 

 

ブッダのことば―スッタニパータ (岩波文庫)

ブッダのことば―スッタニパータ (岩波文庫)

 

 

 

 

法華経 上―梵漢和対照・現代語訳

法華経 上―梵漢和対照・現代語訳

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自分をコントロール?

人間は、自分をコントロールできるだろうか?

これはある人から頂いた手紙の中に「セルフコントロール主体になりうるという人間という観点にたって・・・」という言葉を読んだ時に、ふと「人間は、自分をコントロールできるのだろうか」と考えてしまった。

わたしは、自分をコントロールできないときがあるので・・・。

 

むかし、通勤電車の中で、自分が貧血で倒れるのではないか?という妄想に襲われ、脂汗を出しながら降車駅まで耐えたことが度々あった。あのときは苦しかった。

 

何かのきっかけで、急に自分が自分でなくなるような感覚に襲われることがある。心臓の脈拍は速くなり、たぶん血圧も上がっているのだろう。(むかし、赤面恐怖症で、緊張しやすいタイプだったのでその影響かもしれない。)そのときは、自分で自分をコントロールできない。辛うじて衝動的な行為(急に走り出したり、大声をあげたくなる)に至らぬよう押さえるだけである。精神的にどっと疲れる。このようなことは、家族に話しても理解してもらえない。多分、経験者でないとわからないのだろう。

 

似たような現象に、「イップス」というのがある。野球選手、特にビッチャーにその例が見られる。今、野球解説している岩元勉氏も現役の頃、この「イップス」を経験している。

参考記事↓

【イップスの深層】先輩の舌打ちから始まった、ガンちゃんの制御不能|プロ野球|集英社のスポーツ総合雑誌 スポルティーバ 公式サイト web Sportiva

 些細なことがきっかけで、ピッチャーがボールを投げることが出来なくなる。投げてもとんでもない方向に飛んでいく。そんなことが実際にあったようだ。岩元さんは、自分自身の努力や周りの人々の応援のお陰で回復したが、それでも完全には回復しなかったらしい。

 

人間は、自分をコントロールできるのは、「限定的」ではないだろうか?と思っている。

 

苦をば苦と・・・

親戚で私と同じ年代の人が、病気で入院した。検査の結果、ガンであることがわかった。かなり進行しているようである。

 

私の周りには、創価学会の人が多い。一応、私も籍だけは置いているが・・・。創価学会は、日蓮の教えを根本としている。

 

先程の人もその家族も創価学会の会員である。病気ということで本人の苦しみはもちろんだが、同時に経済面での苦労も生じている。家族の精神的な苦しみもある。なんと声をかけたらよいのか迷った。

 

そこで、日蓮の言葉を借りて次のように呟いてみた。

「苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ」(日蓮御書創価学会版p1143)  悩み苦しみがあって、どうしても題目を唱えたいという人には、この言葉を贈りたいと思う。単なるご利益信仰ではない、題目を唱えてほしい。(@59CvSgSeujOqyUN)

 

日本仏教の特徴として、現世利益的な傾向が強いことが指摘されている。創価学会の会員の言動を見ているとたしかにその傾向が強いことが伺える。ある人も創価学会を評して、「他力本願的なお頼み信心に陥っている」と指摘していた。(この場合の他力本願は、依存的という一般的な意味で使っています。親鸞のような、一神教的な他力本願とは異なります。)

 

日蓮は、「苦をば苦とさとり」と言っている。多くの人は、「楽をば楽と」というのは理解できても、「苦」に対しては躊躇してしまうのではなかろうか。それをあえて「苦をば苦とさとり」というのは、一見酷な言い方のようだが、現実を「ありのままに見る」ということを教えているのではないだろうか。

 

ある人は、ツイッターで、「⭕⭕して〜とか、なったらいいなとかでなくて、悲しいなら悲しいと、辛いなら辛いと他人には言えないけれど、ここでは思いの丈を洗いざらい差し出して、吐き出すことで・・・」(@namonakicatさん:鍵アカさんなので引用を迷ったのですが・・・。私になかった視点なので勝手にお借りしました。ごめんなさい。)と呟いていた。たしかにそれもありだなと思う。

 

信仰というのは、結局「一人ぼっち」なのかもしれない。周りからの助言などがあったとしても最終的には自分で決めるしかないのだろう。そのときに必要なのは、自分のことをどれだけありのままに見つめることができるか、だろう。そのためには、一度洗いざらいにぶちまけるのもひとつの方法かもしれない。ある意味開き直ることが大事なのかな。

 

病気に対しては、勝とうとせず「共存する」姿勢がよいと何かで読んだ気がする。

 

私も同年代だから、いつどうなるか分からないわけで、決して他人事ではない。

沈黙

私は「妥協」することが多い。好んでそうしているわけでもないのだが、他人と争うのが嫌で、ついつい安易な「妥協」に落ち着くことが多い。昔の人は、「和を以て貴っとしとなす」とか言ったそうだが、(その本来の意味は知らないが)  私にとっては「妥協」や「沈黙」が「和」を保つための方法の一つだと思っている。(情けないけど・・・)  だからといって、全く反応しないわけでもない。時には、「怒り心頭に発する」こともある。その時は勢いに任せて発言してしまうこともある。滅多にないけど・・・。

 

だから、自分の意見を堂々と主張し、議論によって更に内容を高めている人を見ると尊敬してしまう。

 

『日本仏教史』(末木文美士  新潮文庫  1996年)を再読していて、遠藤周作の『沈黙』という小説を引用した文章にであった。

仏教の土着と風化ということを考えるとき、最近しばしば思い浮かべるのが、遠藤周作の『沈黙』という小説です。『沈黙』は江戸時代初期の弾圧下のキリシタンを扱ったものですが、そこには宗教が土着するとはどういうことなのかという重い主題が展開され、仏教もその問いかけから逃れることができません。

『沈黙』の主人公ロドリゴに向かって、棄教した先輩の宣教師フェレイラはこう語りかけます。その箇所を引いてみましょう。

 

 

「二十年間、私は、布教してきた」フェレイラは感情のない声で同じ言葉を繰りかえしつづけた。

「知ったことはただこの国にはお前や私たちの宗教は所詮、根をおろさぬということだけだ」

「根をおろさぬのではありませぬ」司祭は首をふって大声で叫んだ。「根が切り取られたのです」

だがフェレイラは司祭の大声に顏さえあげず眼を伏せたきり、意志も感情もない人形のように、「この国は沼地だ。やがてお前にもわかるだろうな。この国は考えていたより、もっと怖ろしい沼地だった。どんな苗もその沼地に植えられれば、根が腐りはじめる。葉が黄ばみ枯れていく。我々はこの沼地に基督教という苗を植えてしまった」

 

しかし、その努力が実って信仰の広まった時期があったではないかというロドリゴの必死の問いかけに、フェレイラは追い討ちをかけるように言い放ちます。

 

「そうではない。この国の者たちがあの頃信じたものは我々の神ではない。彼らの神々だった。それを私たちは長い長い間知らず、日本人が基督教徒になったと思いこんでいた」

 

これはもちろんキリスト教の話です。しかし、仏教の場合、それと無関係と言い切ることができるでしょうか。そもそも仏教者から真剣にこのような問いが正面から発せられたことがあったでしょうか。仏教は日本に定着したといわれます。だが、その定着の中身は何だったのでしょうか。「怖ろしい沼地」であるこの国で、仏教の根は果たして腐らずに長らえることができたのでしょうか。(p362〜364)(『沈黙』からの引用文は、管理者により斜体・太字に装飾。)

 

学生時代に「土俗性と普遍性」をテーマの一つにした講演を聞いたことがある。そのとき以来、「土俗性と普遍性」が、私の頭の片隅に置かれて、時々思い出したように登場する。この本を読んでいて、またこのテーマが思い浮かんだ。

個人的には、「キリスト教」のみならず「仏教」でさえも、「怖ろしい沼地」で息も絶え絶えになっているのが実態ではなかろうか。「仏教の日本化」と言えばそれらしく聞こえるが、実は土俗性にまみれた結果ではないだろうか。

 

 

 

日本仏教史―思想史としてのアプローチ (新潮文庫)

日本仏教史―思想史としてのアプローチ (新潮文庫)