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ガラガラポン日記

複雑になってしまった問題を、一度ゼロにして、考え直してみる。

読書メモ『哲学な日々』

野矢茂樹さんが書いた『哲学な日々』(講談社 2015年)という本を読了。

 

野矢茂樹さんという名前、どこかで見たなあ、と思っていたら、本書に書いてあった。『論理トレーニング』の著者だった。なるほどですねえ。

 

そこでまず「§32  論理的ということ」という文章から引用。

「論理的でない」と自認する人は少なくない。あれ、あなたも? (p76)

 ドキッ! 私のことか?私はずーっと自分のことを「論理的でない」と自認していた。

 

論理的とは、狭い意味では推論が正確にできることだ。しかし、私としては、より広い意味で論理的ということを考えたい。言葉を断片的にではなく、関係づけて捉えること。この言葉とこの言葉はどういう関係にあるのか。それが的確に理解でき、きちんと関係づけられた言葉を使えること。(p76)

なるほどですねえ🎵

 

だから、逆に非論理的というのは、答えになってない答えを返したり、すれ違いに気づかないで相手に反対したり、ぜんぜん説明になっていない説明を与えたりすることだ。

さらに言えば、問いを無視する、賛成も反対もしないでたんにスルーする、説明不足なんか気にしない、そこまでいくと、これは非―論理的というより無―論理的である。つなげ方をまちがえているのではなくて、そもそもつなげようとしない。ただ断片的に言葉が並べられるだけ。(p77)

「答えになっていない答えを返す」「すれ違いに気づかない」・・・これは時々あるんですよね。残念ながら。やはり私は、「論理的でない」にやや近いのかもしれない。

 

 

次に「§41   ほめるのではなく」から。

「ほめて育てる」と、よく言われる。確かに、ほめられるとやる気が出る。だから、子どもを伸ばそうと思ったなら、ほめることはとても効果的である。しかし、「ほめて育てる」という方針は根本的にまちがっている。(p94)

え〜っ!まちがっている?  なぜ?

 

ほめられて育った子が、ほめられるためにがんばるようになる。そしてそこから抜け出せない。これが最悪のシナリオである。(中略)  何かを為すときには、そのこと自体がもたらす達成感こそが、その行動の原動力になるのである。この、自分自身の内側から産み出される駆動力を、「ほめられるためにがんばる」という行動原理は奪ってしまう。

ほめる者はほめられる者よりも優位に立つ。だから、ほめられたいと思う気持ちは、自分よりも優位の者を求めることにつながる。子どもは大人たちを出し抜き、追い越していかなければいけないのに、ほめられようとして上目づかいになり、ほめてくれる人に自ら進んで隷属しようとする。ほめて育てようとする人たちは、おそらくは無自覚のうちに、そうして子どもを支配しようとしている。(p94〜95)

 

たしかにそういう可能性は考えられる。視点を変えるとこういう見方もできるのか。「最悪のシナリオ」ということで、そこまでいかない場合も当然あるだろうが・・・。では、どうすれば良いのか?

 

ほめるのではなく、共に喜ぶこと。何かがうまくできたなら、一緒に喜んで、子どもが感じている喜びを増幅する。そうして、その子が自分の内側から感じる喜びを引き出してあげるのだ。

何かを為したことがもたらす喜びが、ほめることによって、ほめられた喜びにすり替えられてしまう。もっと子どもの内側から湧いてくるものをだいじにしなくてはいけない。(p95) 

子どもの視線で共に喜ぶことということかなあ。ほめることと似てるけど違うのだなあ。ちょっと難しい。でも大事なことだ。

 




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哲学な日々 考えさせない時代に抗して

哲学な日々 考えさせない時代に抗して

 

 

 

読書メモ『補欠廃止論』

図書館で、「セルジオ越後」の名前に惹かれて『補欠廃止論』(セルジオ越後   ポプラ新書    2016年)という本を借りてきた。

僕には、何十年も主張し続けてきたことがある。それは日本サッカー、いや団体スポーツを強くするためには、部活動などの子どもの教育現場から「補欠制度」を撤廃しなくてはならない、ということだ。(p14)

 

部活という教育の現場に、補欠が存在するのはとんでもないことだ。学校で「君はテストの点数が悪いから補欠です。テストの点数がよくならない限りは、授業は受けられませんが、毎日登校して仲間を応援してください」と言われたら、どう思うだろうか?本人や親は烈火のごとく怒るだろう。

しかし、同じ教育目的の部活動には、補欠制度が存在する。これはおかしいと思わないのだろうか?

そういう意味で僕は、補欠制度は差別に値すると考える。(p16) 

 

我が家の子供も中学生時代、サッカー部に所属していたがずーっと「補欠」だった。テレビで甲子園の高校野球を見ると、スタンドにユニホームを着た多くの野球部員がいる。下級生は別として上級生はベンチに入れないので「補欠」なんだろう。(セルジオ越後さんは、「ベンチにいて試合に出られる可能性のある人は「控え」で、スタンドにいて試合に出られない人を「補欠」」(p17図)と分けて説明している。)

 

この本のタイトルは、「補欠廃止論」という事で、日本では常識と思われていることを鋭く指摘している。そういう意味でインパクトがあるが、より求めているのは日本のスポーツ全体のあり方だと思う。

 

この記事を書いているときも、高校の登山部の安全講習で遭難があり、多くの高校生が亡くなったというニュースが流れていた。本書では、学校の部活動のあり方についても現状の改善を求めている。教員の負担も大きいようだ。学校の枠を外した地域のクラブの利用など多角的な方法を勧めている。

 

私見だが、人々は、「学校」に多くを望みすぎている、あるいは依存しすぎているのではないだろうか。明治以降、国家主義の担い手を育成したのは、「教育勅語」に代表される学校教育だと思っている。様々な角度から「学校」というものを見直していくことが必要だと思う。

 

本書の最後でセルジオ越後さんは、こう書いている。

僕が理想とする未来ーーー。それは、子供たちの世界から補欠制度を廃止することであり、体を動かすことの楽しさを知り、週末は家族や友人たちとスポーツ観戦するようになることだ。スポーツが、決して体育や習い事の延長としてのものではなく、生活の一部になっているのが理想だ。(p151〜152)

 

「生活の一部」というのがいいなあ。 

 

 

frosty_morning

 

 

(096)補欠廃止論 (ポプラ新書)

(096)補欠廃止論 (ポプラ新書)

 

 

 

 

「それがそうなのではなく、あなたがそう見てる」

身の周りの出来事 仏法・創価学会

 為末大さんの無料メルマガが、たいへん参考になるなあ🎵と思ったので、早速引用させていただく。

 

 

為末さんは、メルマガの最初で、メジャーリーグに行った野茂英雄さんの例をあげておられた。野茂さんの成功をきっかけとして、続々と日本人選手がメジャーリーグへ挑戦していった。

 

  そういえば、体操競技でもむかしは難易度「C」が最高だった時代がある。「C」の中でも難しいのは「ウルトラC」と言われていた。最近では、難易度「F」・「G」まであるらしい。

   陸上の100mでは、かつて誰かが9秒台の世界記録を出し、次々と9秒台の記録が出ると、今では10秒台が普通の記録のように言われている。

 

マインドセットを日本語で訳しているものを見ると、思い込み、先入観、刷り込み、などがあります。要は自分が判断をしたり行動をすることの前提になっている(おそらくは無意識の領域で)考え方や見方の癖と言えるのではないかと思います。  

 

なんとも不思議だ。ある種のイメージなのだろうか?  人の行動や思考に対する影響は大きいものがあるようだ。 

 

記事では、

じゃあ、そのマインドセットを変えればいいじゃないかと思うのですが、マインドセットが変わるということはまさに自分にとっては世界が変わるということですから、なかなか簡単ではありません。難しいのは承知の上で、マインドセットはどんなプロセスを経て変わっていくのか、現役時代の経験から、どういうプロセスだったかをまとめてみました。  

として、6つのポイントをあげられている。

 

先日の『仏教思想のゼロポイント』に書いてあった「物語の世界」に気づくかどうかと、マインドセットに気づくかどうかとは、何か共通しているような気がする。まずは「気づく」ことが第一歩だなあ。「それがそうなのではなく、あなたがそう見てる」と気づくことができるかどうか。

 

 

その他のツイートも参考に。

 

 

Time out from the sun at Grand Haven Beach.  - vertorama

読書メモ『日本人はどこまで減るか』

『日本人はどこまで減るかー人口減少社会のパラダイム・シフト』(古田隆彦 幻冬舎新書 2008年)読了。図書館で何気なく手にとって読んでみたが、タイトルから予想したものより「深いい」本だった。

 

①  少子・高齢化で人口が減る

②  子どもが減り、老人が増える

③  出生率が上がればベビーの数は増加する

④  年金保険料の負担者が減って年金制度が崩壊する

⑤  労働力が減ってGDP(国内総生産)が低下する

⑥  消費人口が減って消費市場が縮小する

⑦  GDPが伸びないから個人所得も伸びない

⑧  少子化の原因は結婚・出産形態の変化である

⑨  少子化対策で人口は回復できる

⑩  日本人は900年後に絶滅する

(p8) 

 この10項目を読んで、⭕「正しい」、❌「誤っている」で答えるとしたらどのようになるだろうか?

私は、①〜⑨は、⭕にして、最後の⑩だけ、❌にした。

 

しかし、本書を読んで驚いた。①〜⑩の全てが、❌だというのである。理由を読んで、それはちょっとという部分もあったが、概ね同意してしまった。

 

人口減少の原因はどこにあるのでしょうか。高名な人口学者は「少子化のためだ」と主張し、新聞やテレビも「少子・高齢化のためだ」ときめつけています。が、いずれも現実を見誤った見解にすぎません。

人口の増減は、海外からの転出入がない限り、出生数と死亡数で決まります。出生数が死亡数より多ければ増え、少なければ減ります。「はじめに」で述べたように、少子化でいくら出生数が減ってもベビーはゼロにはなりません。なにがしかが生まれる以上、人口は前年より増えます。他方、高齢化で寿命が延びれば、死亡者は確実に減っていきますから、前年より減少分は減るはずです。

少子化でも出生数が存続し、高齢化で死亡数が減っていくとすれば、出生数と死亡数の差はプラスになる可能性があります。つまり、少子・高齢化だけで人口が減るとは限りません。増えることさえあります。「詭弁」といわれそうですが、物事を正確に表現すれば、「少子・高齢化で人口が減る」とはいえないのです。(p22〜23)

(中略)

このように少産化の背景には、年齢構成の変化や国民一人ひとりの生活意識の変化といった事情があり、また多死化の背景には、近代的な生活様式や現代医学の限界があります。要するに人口が減るのは、出生数が減って死亡数が増加する「少産・多死化」のためであり、「少子・高齢化」のためではありません。これが人口の減る直接的な理由です。(p25)

 

 

 

動物の個体数抑制行動はどうなのか?

ライオンは、

タンザニアセレンゲティ草原に生息するライオンは、成体のオス一匹と複数のメスで一つの群れを作り、なわばりを作って獲物を捕らえている。この群れのオスが他のオスによって追い出されて入れ替わると、新しいオスは前のオスの子をすべて殺す。(p50)

下記のブログ記事によると「子」は、「1歳未満」に限られているようだが、それにしても驚いた。

africanwildlife.blog.fc2.com

 

 

本書では、過去の人口増加の歴史から、新たな次期文明の出現を期待した一章で終了する。この指摘は、本当に予想外だった。何かワクワクしてくる。福島原発問題や南海トラフ地震を考えると暗くなってしまうが、こういう視点もありかな、と思ってしまう。

 

 

17460035

 

日本人はどこまで減るか―人口減少社会のパラダイム・シフト (幻冬舎新書)

日本人はどこまで減るか―人口減少社会のパラダイム・シフト (幻冬舎新書)

 

 

読書メモ『仏教思想のゼロポイント』

仏教思想のゼロポイント』(魚川祐司 新潮社 2015年)再読。

う〜む。むずかしい。少しずつ分かりやすいところからメモしていこうと思う。

 

まず「輪廻」ということについて。

「輪廻」というと私たちは一般的に、ある「人」が死んで、それが別の存在として生まれ変わるという「転生」の問題ばかりを考えてしまいがちだが、実のところ輪廻というのは、そうした転生の瞬間だけに起きるものではなくて、いま・この瞬間のあなたにも(仏教の立場からすれば)、現象の継起のプロセスとして、生起し続けているものである。転生というのは、そのことのわかりやすい現れに過ぎない。(p97)

 

輪廻というのは、いつかどこかで「自分」が死ぬときに起こる神秘現象ではなくて、いま・この瞬間に生じ続けている「現実」だ。だから、それを乗り越えるためには、私たちは何よりもいま・ここに起こっている現象を、目を背けずに「如実知見」しなければならない。

ゴータマ・ブッダ仏教の本筋は、このように物事を「ありのままに知る」ことによって、苦なる現象の継起(=輪廻)から離脱するということにあるのであって、そのことと、単なる転生ではない、現象の継起としての輪廻の理解とは、もちろん密接に関わっている。このことは仏教を理解する上でたいへん重要なポイントなので、しっかりと確認しておかねばならない。(p98〜99)

 

生物の本を読むと、人間はおよそ60兆の細胞で成り立っているらしい。(最近は、37兆とも言われているようだ。)その細胞は、様々な周期で生死を繰り返しているという。従って、身体的に言えば、昨日の私と今日の私とは、全く同一とは言えないのだ。そういう面から考えると日々輪廻、瞬間瞬間が輪廻ともいえる。身体が輪廻するのに「私」は同じなのか?という問題が生じるがそれはまた別に多くの課題を含んでいる。

 

 著者の魚川祐司さんは、ツイッター上では「ニー仏」さんとして知られている。そのツイートのひとつがこれなのだが、ウ・ジョーティカ師の言葉はいろいろ考えさせられる。

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仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か

仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か

 

 

 

レジは座ってもいいのでは? (その他雑感)

今日は早く起きたので久しぶりにCDを聞いている。昔買った高橋真梨子さんの「〜スペシャル・ベスト〜コレクション」というCDだ。1993年の発売だから24年も前のものになる。私が学生の頃、友人が勧めてくれたのがきっかけで高橋真梨子さんを知った。当時は、ペトロ&カプリシャスのボーカルだった。一時は体調を崩された時もあったようだが、今は元気で歌手活動を続けておられるようだ。嬉しい。

 

 

昨日、テレビのニュースで、大型ショッピング店の閉店時間が変更になった、と伝えていた。夜10時までの営業時間が夜9時半になったところもあれば、夜9時から夜8時に変更になったところもあるようだ。理由は、人手不足らしい。例によって街角インタビューが流れていたが、相変わらず賛否両論であった。(このワンパターンの構成は何とかならないのだろうか?)    店員へのインタビューは、本音が聞けてよかった。

先日は、宅配便の料金値上げ、配達方法の見直しなどのニュースも流れていたが、これも人手不足が原因らしい。

「働き方改革」とか言われているようだが、人手不足という基礎的な問題で、状況は徐々に変化しつつあるようだ。

 

これらは単に人手不足というより、人びとの生き方が変わりつつあるというか、本来のものに戻りつつあるのではないかと思っている。

 

小さなことだが、スーパーに行くとレジの人がずーっと立っているのにいつも不思議な感じを受けている。暇なときは腰掛けててもいいのになあ、と思う。ヨーロッパのある国では、レジの人はずーっと座っているシステムだった。物が流れ、買った人が動くという流れだった。飲食店の会計の人もしっかり座っていた。アジアの数ヵ国は、立っている場合が多かったような気がする。この違いは何だろう?

レジや販売、座っていてもいいと思いませんか? : キャリア・職場 : 発言小町 : 大手小町 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

こういう意見が徐々に増えてきてもいいのではないだろうか?

 
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読書メモ『輪廻転生』

図書館で『輪廻転生〜〈私〉をつなぐ生まれ変わりの物語』(竹倉史人  講談社現代新書2015年)という本を借りてきた。これは、今読んでいる『仏教思想のゼロポイント』(魚川裕司 新潮社 2015年)の中で「輪廻」について書かれていたので、それをネットで調べる中で「輪廻転生」という言葉が出てきた。そのとき、たまたま図書館でこのタイトルが目に入り借りてきたのだ。

 

著者の「竹倉史人」さんは、1976年生まれだから、今年41歳。「魚川裕司」さんは、1979年生まれだから、今年38歳。これからの活躍が楽しみだ。

 

さて、『輪廻転生』に戻ります。

輪廻転生―――死んでもまた新たな肉体に生まれ変わる―――という観念の起源は古く、少なく見積もっても2500年はさかのぼることができます。(p3)

 

輪廻転生は、非常に広汎な地域で受容されている。

 

生まれ変わりという考え方が必ずしも「宗教信仰」に依拠しているのではなく、それとはまた異なる水準で、人びとのあいだに広がっている。(p13〜17)

 

 「輪廻転生」という観念が、これほど古くから、しかも広い地域で土着的に受け入れられていることにビックリしている。ある調査(輪廻転生を信じますか?)によれば、「あると思う」と答えたのは、日本は、42.1%だそうです。ちなみに1位はスリランカで68.2%、2位は台湾59.4%、3位はイスラエル(ユダヤ人)53.8%。(p14図参照)

 

個人的には、今まで「輪廻転生」には否定的だったが、前世を記憶している子どもたちがいることを知り、まれに「輪廻転生」あるかも?と思い始めている。

 

 

本書の主題から外れるが、「進歩史観と退歩史観」についての記述は驚きだった。

現代の高度資本主義社会を生きる多くの人にとって、<進歩>の観念はじつに馴染み深いものとなっています。しかし、このような考え方が広がり始めたのは、せいぜい200年前のことにすぎません。それ以前は---現代人にはなかなか想像しがたいですが―――むしろ人類は退歩していると考えるほうがはるかに自然なことだったのです。

<進歩>の観念は人類史に忽然と登場したわけではありません。それが現在のようなリアリティを獲得するためには、長いプロセスをへて、旧世界を支配していた強固なパラダイム(=退歩史観)を打ち破る必要がありました。進歩の観念が強固なものとなったのは近代以降の工業化社会においてですが、ここに到達するまでには、17世紀以降の科学革命と啓蒙主義の普及、そして19世紀の産業革命と、いくつかの歴史的転換点を通過する必要があったのです。(p123〜124)

 

また 、1857年に出版された『霊の書』(アラン・カルデック著、霊との質疑応答集)に関連して、興味深い記述がある。

個人主義に基調をおくリインカネーションの思想は、きわめて独特な「災因論」を説きます。災因論とは、人生における災厄がなぜ他ならぬこの私の身にふりかかるのか、それを説明するロジックのことです。苦難を偶然とは見なさず、そこに何らかの原因や意味を見出そうとするのです。

 

(✳『霊の書』からの引用部分)

       カルデック:遍歴の状態にあり、これから新しい肉体に宿ろうとしている霊が、自分の次の人生で起こることを予見することはありますか?

     〈霊〉:霊は自分が受ける試練を自分で選ぶのだ。そして、この選択の自由のなかにこそ、霊の自由意思というものが存在している。

 

 

このあとの問答でも「人生の苦難はみずからに課す試練として自分自身で決定する」と〈霊〉は明言しますが、この発想は斬新です。従来の災因論であれば、人生における災難とは、神霊の怒りを買った結果であったり、妖術師からかけられた呪詛の結果であったり、はたまた前世で犯した自分の悪業の結果であったりと、いずれにせよ極力さけるべきものだったからです。(p114〜115)

 この部分がなぜ興味深いかというと、思想的な背景は異なるが、日本の仏教にも似たような考え方があるからだ。たぶん竹倉さんもご存じなんだろうと思うけど、「願生(がんしょう)」「 願兼於業(がんけんおごう)」という言葉で表されている。個人的には、これらの考え方には否定的なのだが、ある一定の人びとにとっては救いとなっているようだ。

 

『輪廻転生』と『仏教思想のゼロポイント』を交互に読むと、不思議な調べが流れる。

 

 
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輪廻転生 〈私〉をつなぐ生まれ変わりの物語 (講談社現代新書)
 

 

 

仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か

仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か