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ガラガラポン日記

複雑になってしまった問題を、一度ゼロにして、考え直してみる。

読書メモ『日本人はどこまで減るか』

『日本人はどこまで減るかー人口減少社会のパラダイム・シフト』(古田隆彦 幻冬舎新書 2008年)読了。図書館で何気なく手にとって読んでみたが、タイトルから予想したものより「深いい」本だった。

 

①  少子・高齢化で人口が減る

②  子どもが減り、老人が増える

③  出生率が上がればベビーの数は増加する

④  年金保険料の負担者が減って年金制度が崩壊する

⑤  労働力が減ってGDP(国内総生産)が低下する

⑥  消費人口が減って消費市場が縮小する

⑦  GDPが伸びないから個人所得も伸びない

⑧  少子化の原因は結婚・出産形態の変化である

⑨  少子化対策で人口は回復できる

⑩  日本人は900年後に絶滅する

(p8) 

 この10項目を読んで、⭕「正しい」、❌「誤っている」で答えるとしたらどのようになるだろうか?

私は、①〜⑨は、⭕にして、最後の⑩だけ、❌にした。

 

しかし、本書を読んで驚いた。①〜⑩の全てが、❌だというのである。理由を読んで、それはちょっとという部分もあったが、概ね同意してしまった。

 

人口減少の原因はどこにあるのでしょうか。高名な人口学者は「少子化のためだ」と主張し、新聞やテレビも「少子・高齢化のためだ」ときめつけています。が、いずれも現実を見誤った見解にすぎません。

人口の増減は、海外からの転出入がない限り、出生数と死亡数で決まります。出生数が死亡数より多ければ増え、少なければ減ります。「はじめに」で述べたように、少子化でいくら出生数が減ってもベビーはゼロにはなりません。なにがしかが生まれる以上、人口は前年より増えます。他方、高齢化で寿命が延びれば、死亡者は確実に減っていきますから、前年より減少分は減るはずです。

少子化でも出生数が存続し、高齢化で死亡数が減っていくとすれば、出生数と死亡数の差はプラスになる可能性があります。つまり、少子・高齢化だけで人口が減るとは限りません。増えることさえあります。「詭弁」といわれそうですが、物事を正確に表現すれば、「少子・高齢化で人口が減る」とはいえないのです。(p22〜23)

(中略)

このように少産化の背景には、年齢構成の変化や国民一人ひとりの生活意識の変化といった事情があり、また多死化の背景には、近代的な生活様式や現代医学の限界があります。要するに人口が減るのは、出生数が減って死亡数が増加する「少産・多死化」のためであり、「少子・高齢化」のためではありません。これが人口の減る直接的な理由です。(p25)

 

 

 

動物の個体数抑制行動はどうなのか?

ライオンは、

タンザニアセレンゲティ草原に生息するライオンは、成体のオス一匹と複数のメスで一つの群れを作り、なわばりを作って獲物を捕らえている。この群れのオスが他のオスによって追い出されて入れ替わると、新しいオスは前のオスの子をすべて殺す。(p50)

下記のブログ記事によると「子」は、「1歳未満」に限られているようだが、それにしても驚いた。

africanwildlife.blog.fc2.com

 

 

本書では、過去の人口増加の歴史から、新たな次期文明の出現を期待した一章で終了する。この指摘は、本当に予想外だった。何かワクワクしてくる。福島原発問題や南海トラフ地震を考えると暗くなってしまうが、こういう視点もありかな、と思ってしまう。

 

 

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日本人はどこまで減るか―人口減少社会のパラダイム・シフト (幻冬舎新書)

日本人はどこまで減るか―人口減少社会のパラダイム・シフト (幻冬舎新書)

 

 

読書メモ『仏教思想のゼロポイント』

仏教思想のゼロポイント』(魚川祐司 新潮社 2015年)再読。

う〜む。むずかしい。少しずつ分かりやすいところからメモしていこうと思う。

 

まず「輪廻」ということについて。

「輪廻」というと私たちは一般的に、ある「人」が死んで、それが別の存在として生まれ変わるという「転生」の問題ばかりを考えてしまいがちだが、実のところ輪廻というのは、そうした転生の瞬間だけに起きるものではなくて、いま・この瞬間のあなたにも(仏教の立場からすれば)、現象の継起のプロセスとして、生起し続けているものである。転生というのは、そのことのわかりやすい現れに過ぎない。(p97)

 

輪廻というのは、いつかどこかで「自分」が死ぬときに起こる神秘現象ではなくて、いま・この瞬間に生じ続けている「現実」だ。だから、それを乗り越えるためには、私たちは何よりもいま・ここに起こっている現象を、目を背けずに「如実知見」しなければならない。

ゴータマ・ブッダ仏教の本筋は、このように物事を「ありのままに知る」ことによって、苦なる現象の継起(=輪廻)から離脱するということにあるのであって、そのことと、単なる転生ではない、現象の継起としての輪廻の理解とは、もちろん密接に関わっている。このことは仏教を理解する上でたいへん重要なポイントなので、しっかりと確認しておかねばならない。(p98〜99)

 

生物の本を読むと、人間はおよそ60兆の細胞で成り立っているらしい。(最近は、37兆とも言われているようだ。)その細胞は、様々な周期で生死を繰り返しているという。従って、身体的に言えば、昨日の私と今日の私とは、全く同一とは言えないのだ。そういう面から考えると日々輪廻、瞬間瞬間が輪廻ともいえる。身体が輪廻するのに「私」は同じなのか?という問題が生じるがそれはまた別に多くの課題を含んでいる。

 

 著者の魚川祐司さんは、ツイッター上では「ニー仏」さんとして知られている。そのツイートのひとつがこれなのだが、ウ・ジョーティカ師の言葉はいろいろ考えさせられる。

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仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か

仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か

 

 

 

レジは座ってもいいのでは? (その他雑感)

今日は早く起きたので久しぶりにCDを聞いている。昔買った高橋真梨子さんの「〜スペシャル・ベスト〜コレクション」というCDだ。1993年の発売だから24年も前のものになる。私が学生の頃、友人が勧めてくれたのがきっかけで高橋真梨子さんを知った。当時は、ペトロ&カプリシャスのボーカルだった。一時は体調を崩された時もあったようだが、今は元気で歌手活動を続けておられるようだ。嬉しい。

 

 

昨日、テレビのニュースで、大型ショッピング店の閉店時間が変更になった、と伝えていた。夜10時までの営業時間が夜9時半になったところもあれば、夜9時から夜8時に変更になったところもあるようだ。理由は、人手不足らしい。例によって街角インタビューが流れていたが、相変わらず賛否両論であった。(このワンパターンの構成は何とかならないのだろうか?)    店員へのインタビューは、本音が聞けてよかった。

先日は、宅配便の料金値上げ、配達方法の見直しなどのニュースも流れていたが、これも人手不足が原因らしい。

「働き方改革」とか言われているようだが、人手不足という基礎的な問題で、状況は徐々に変化しつつあるようだ。

 

これらは単に人手不足というより、人びとの生き方が変わりつつあるというか、本来のものに戻りつつあるのではないかと思っている。

 

小さなことだが、スーパーに行くとレジの人がずーっと立っているのにいつも不思議な感じを受けている。暇なときは腰掛けててもいいのになあ、と思う。ヨーロッパのある国では、レジの人はずーっと座っているシステムだった。物が流れ、買った人が動くという流れだった。飲食店の会計の人もしっかり座っていた。アジアの数ヵ国は、立っている場合が多かったような気がする。この違いは何だろう?

レジや販売、座っていてもいいと思いませんか? : キャリア・職場 : 発言小町 : 大手小町 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

こういう意見が徐々に増えてきてもいいのではないだろうか?

 
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読書メモ『輪廻転生』

図書館で『輪廻転生〜〈私〉をつなぐ生まれ変わりの物語』(竹倉史人  講談社現代新書2015年)という本を借りてきた。これは、今読んでいる『仏教思想のゼロポイント』(魚川裕司 新潮社 2015年)の中で「輪廻」について書かれていたので、それをネットで調べる中で「輪廻転生」という言葉が出てきた。そのとき、たまたま図書館でこのタイトルが目に入り借りてきたのだ。

 

著者の「竹倉史人」さんは、1976年生まれだから、今年41歳。「魚川裕司」さんは、1979年生まれだから、今年38歳。これからの活躍が楽しみだ。

 

さて、『輪廻転生』に戻ります。

輪廻転生―――死んでもまた新たな肉体に生まれ変わる―――という観念の起源は古く、少なく見積もっても2500年はさかのぼることができます。(p3)

 

輪廻転生は、非常に広汎な地域で受容されている。

 

生まれ変わりという考え方が必ずしも「宗教信仰」に依拠しているのではなく、それとはまた異なる水準で、人びとのあいだに広がっている。(p13〜17)

 

 「輪廻転生」という観念が、これほど古くから、しかも広い地域で土着的に受け入れられていることにビックリしている。ある調査(輪廻転生を信じますか?)によれば、「あると思う」と答えたのは、日本は、42.1%だそうです。ちなみに1位はスリランカで68.2%、2位は台湾59.4%、3位はイスラエル(ユダヤ人)53.8%。(p14図参照)

 

個人的には、今まで「輪廻転生」には否定的だったが、前世を記憶している子どもたちがいることを知り、まれに「輪廻転生」あるかも?と思い始めている。

 

 

本書の主題から外れるが、「進歩史観と退歩史観」についての記述は驚きだった。

現代の高度資本主義社会を生きる多くの人にとって、<進歩>の観念はじつに馴染み深いものとなっています。しかし、このような考え方が広がり始めたのは、せいぜい200年前のことにすぎません。それ以前は---現代人にはなかなか想像しがたいですが―――むしろ人類は退歩していると考えるほうがはるかに自然なことだったのです。

<進歩>の観念は人類史に忽然と登場したわけではありません。それが現在のようなリアリティを獲得するためには、長いプロセスをへて、旧世界を支配していた強固なパラダイム(=退歩史観)を打ち破る必要がありました。進歩の観念が強固なものとなったのは近代以降の工業化社会においてですが、ここに到達するまでには、17世紀以降の科学革命と啓蒙主義の普及、そして19世紀の産業革命と、いくつかの歴史的転換点を通過する必要があったのです。(p123〜124)

 

また 、1857年に出版された『霊の書』(アラン・カルデック著、霊との質疑応答集)に関連して、興味深い記述がある。

個人主義に基調をおくリインカネーションの思想は、きわめて独特な「災因論」を説きます。災因論とは、人生における災厄がなぜ他ならぬこの私の身にふりかかるのか、それを説明するロジックのことです。苦難を偶然とは見なさず、そこに何らかの原因や意味を見出そうとするのです。

 

(✳『霊の書』からの引用部分)

       カルデック:遍歴の状態にあり、これから新しい肉体に宿ろうとしている霊が、自分の次の人生で起こることを予見することはありますか?

     〈霊〉:霊は自分が受ける試練を自分で選ぶのだ。そして、この選択の自由のなかにこそ、霊の自由意思というものが存在している。

 

 

このあとの問答でも「人生の苦難はみずからに課す試練として自分自身で決定する」と〈霊〉は明言しますが、この発想は斬新です。従来の災因論であれば、人生における災難とは、神霊の怒りを買った結果であったり、妖術師からかけられた呪詛の結果であったり、はたまた前世で犯した自分の悪業の結果であったりと、いずれにせよ極力さけるべきものだったからです。(p114〜115)

 この部分がなぜ興味深いかというと、思想的な背景は異なるが、日本の仏教にも似たような考え方があるからだ。たぶん竹倉さんもご存じなんだろうと思うけど、「願生(がんしょう)」「 願兼於業(がんけんおごう)」という言葉で表されている。個人的には、これらの考え方には否定的なのだが、ある一定の人びとにとっては救いとなっているようだ。

 

『輪廻転生』と『仏教思想のゼロポイント』を交互に読むと、不思議な調べが流れる。

 

 
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輪廻転生 〈私〉をつなぐ生まれ変わりの物語 (講談社現代新書)
 

 

 

仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か

仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か

 

 

読書メモ『治りませんように』

本の抜き書き

『治りませんように〜べてるの家のいま』(斉藤道雄   みすず書房  2010年)  を読み終えた。「べてるの家」関係は4冊目かな?読むたびに新たな発見がある。 

 

べてるの家の作業場や日赤病院のデイケア棟で、一週間に一回から二回のペースで開かれる当事者研究には、十人から二十人、多いときには三十人ほどの仲間がやってくる。研究とはいえ、それが基本的に精神障害を抱える当事者が自分自身を「語る場」であることは、ほかの多くのミーティングと変わらない。しかしまた研究であるがゆえに、当事者が語ることがすべてそのまま受けとめられるわけでもない。しばしば語ったことにはどのような意味があるのか、語りの背後にはなにがあるのか、あるいは語りが覆い隠しているもの、語られなかったことはなんであるかが参加者によって語られ、語りなおされる。そのための試みがあくことなくくり返される。たしかに浦河弁が多用され、語られることには省略や飛躍がまじって訪問者にはわかりにくい場面もあるが、難解なことばや理屈が宙を舞うわけではなく、日常のことばで、暮らしの会話として、研究は進められる。(P140)(太字は、私が。)

 動画がその様子を伝えてくれる。

 


べてるの家 当事者研究 2010 1/3

 

自分の弱さをさらけ出すというのはなかなか出来ないことだと思う。恥ずかしいし、こんなことで悩んでいるのか、とバカにされそうで・・・。でも、ほんの少しの勇気をもって言ってみると、それを受け止めてくれる人たちがいる。決してバカにすることなく、逆に「苦労したんだね」「よく頑張ったね」と言葉をかけてくれる。そういう人たちがいるだけで「ホッ」としてしまう。「難解なことばや理屈が宙を舞うわけではなく、日常の言葉で、暮らしの会話として」という文章を読んで、反省してしまう。ともすれば「難解なことばや理屈」に憧れる傾向性の強い私としては、胸に「グサッ」と刺されたような気がした。

 

 

治りませんように――べてるの家のいま

治りませんように――べてるの家のいま

 

 

読書メモ『「憲法改正」の真実』

本の抜き書き

『「憲法改正」の真実』(樋口陽一小林節 集英社新書 2016年)を読んだ。日本の未来を思うと気分が落ち込んでしまった。本を読んでこんなに暗い気分になったのは久しぶりだ。

 

この本では、ふたりの憲法学者が、自民党による憲法改正草案(2012年4月公表)を分析し批判している。この草案に見られる「隠された意図」は何なのだろうか?トカゲのシッポをつかんでもすぐに逃げられてしまうから、トカゲ本体を捕まえないと「憲法改正」の真実は見えてこない。

 

実態はどうなのだろう?

小林:最近の国会の風景をご覧になっていてお気づきのように、我が国与党の国会議員の多くは、「そもそも、憲法とはなにか」という基本的な認識が欠如しています。(中略)

樋口:つまり、彼らには憲法というものの概念、コンセプトそのものに対する基本的な共通認識がない、ということですね。

小林:そうなんですよ。自民党とのつき合いは30年あまりになりますが、そのとおりだと残念ながら申し上げるしかありません。(p19〜20)

 

小林:驚くべきことは、国政を担う彼らが、近代憲法とはなにかについて、まったくと言っていいほど理解を示さない、理解できないということです。(p22) 

 これは驚きというかあきれてしまうナア。

 

「確実に国民の命を守る役割」が憲法の新しい要素=「授権規範」である、という高市議員の主張は、憲法学の知識が欠如しているがゆえの言葉の誤用です。

しかし、単なる用語の間違い、概念の混乱という以上に、この高市議員の主張が問題なのは、自民党憲法観の間違いが、ここににじみ出ているからです。この論調は、権力に対して無限に「授権」し、国民を制限するのが「新たな憲法」の役割だという方向に転化しかねない。

樋口:国家に与えられている権力は、国民の権利や自由、基本的人権を侵害しないという「制限規範」に縛られた条件つきなのです。そういう認識が彼らにはないのです。(p27〜28)

 これはもう絶望しかないですね。

 

【参考になったサイト記事】

yuruneto.com

 

小林: 彼らの共通の思いは、明治維新以降、日本がもっとも素晴らしかった時期は、国家が一丸となった、終戦までの10年ほどのあいだだった、ということなのです。(P32)

 

小林:先ほどの立憲主義は時代遅れだという安倍首相の発言は、人民に選ばれた俺たちを優先しろ、ということでしょう。民主主義で選ばれた我々を、憲法が制限するのはおかしい。立憲主義など、民主政治のもとでは価値がない、と言わんばかりですから。

樋口:そうなんです。立憲主義で民主主義を制限するのはおかしいというロジックです。(P41)

 

 ほんの一部の人たちの動きなんだろうけど、その人たちが国会に巣食っているために影響は甚大だ。国民は「なめられている」。「なめんなよ❗」の気持ちを保ち続けることが大事なのかもしれない。

 

「憲法改正」の真実 (集英社新書)
 

 

 

 

 

日本会議の研究 (扶桑社新書)

日本会議の研究 (扶桑社新書)

 

 

 

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読書メモ『原発と日本の核武装』

本の抜き書き

原発と日本の核武装原子力事業のタブーを明かす』(武田邦彦  詩想社新書 2016年)より。

 原発推進派と反対派それぞれの主張を客観的に分析している。これは参考になる。武田氏の言うとおり、まず「感情論」で賛成か反対かが決まっているというのは頷ける。また、マスコミ、特にテレビや新聞報道の問題点もそのとおりだと思う、そのニュースソースである政府・官僚の思惑も。(今まで「地球温暖化」を鵜呑みにしていたが、武田氏の言うとおりであれば、問題外ということになる。)

 

科学的な考え方を何回も強調されている。マスコミや政府のウソやダマシに惑わされないために必要というのは賛成。

 

「日本の核武装」というのは、よく分からない。抑止力としての核武装ということか?今の状況では、それを選択せざるを得ないのかなあ・・・。ただ、核兵器の原材料があり、ロケット技術もあるので、日本が核武装する条件は整っている、というのは理解できる。

 

本書を読んで連想したのだが、戦後の日本でかつて「3S政策」というものが行なわれた。「スクリーン又はスポーツ」「スピード」「セックス」の頭文字を取って作られた言葉だ。2020年の東京オリンピックなどはまさしく「3S政策」の延長であろう。福島原発から注意を逸らすのに、ちょうどいいものを見つけたものだ。

私見だが、ひとりひとりが「科学的思考」を身につけ、政府やマスコミなどが「秘密」にしていることを見つけ出し、多くの人々とネットなどで「共有」することが、3S政策に対抗できる一つの方法ではないかと思う。(科学的思考:scientific thinking  秘密:secret  共有:share・・・無理に当てはめて3Sにしてみた。)

 

本書の 目次より一部抽出。

〇 実は新幹線よりも耐震性が弱い日本の原発

原子力安全神話はまさしく神話であった

〇 目前に迫っていた日本列島の最大の危機

〇 日本人全員を16回以上殺害できる量の放射性物質が放出された

原発の立地はこうして決まる

〇 いまだにある原発は安全で経済的だという錯覚

〇 被曝と健康への影響に関するデータは不足している

〇 とりあえず原発は止めておいた方がよいと考える理由

〇 民主主義とは意見の異なる人を認めること

〇 一万人の専門家の誰もが見誤った原発の安全性

津波対策ができれば再開できるというのはトリックだ

〇 純粋にコストだけ見れば化石燃料がもっともお金がかからない

〇 法令よりも外国のどこかの任意団体の意見が重視される異常さ

〇 避難する住民を欺いた「風向き」の隠蔽

〇 自分たちだけが逃げたマスコミ

〇 汚染がひどいので、変えられた安全基準

〇 海洋生物へのストロンチウムの蓄積

〇 いまだに残る食材への不安

〇 日本はすでに核爆弾の原料をこれだけ持っている

〇 あきれるほど非科学的な社会

 

 また、本書の主題から少しずれるが、「温暖化」に関して。今は南極、北極に氷があるので氷河期であると武田氏は言う。調べてみると、概ね氷河期或いは間氷期という考え方が多いようだ。南極や北極の氷が溶けても海面は上昇しない、というのにはビックリした。

 

氷河学的には、氷河期という言葉は、南半球と北半球に氷床がある時期を意味する事が多く、この定義によれば、グリーンランドと南極に氷床が存在する現代、我々は未だ氷河期の中にいることになる。(中略)この意味でいえば、最後の氷河期は1万年前に終了したということになる。この約1万年前に終わった出来事を、文献によっては「最後の氷河期」と記載していることもあるが、科学者の多くは氷河期が終わったのではなく、氷河期の寒い時期「氷期」が終わったとし、現在を氷期氷期の間の「間氷期」と考えている。(Wikipedia 氷河期より)

 参考記事

yahuhichi.com

 

 

 

 

原発と日本の核武装 (詩想社新書)

原発と日本の核武装 (詩想社新書)