ガラガラポン日記

複雑になってしまった問題を、一度ゼロにして、考え直してみる。

ガンバレ

私は、「ガンバレ」「ガンバッテネ」という言葉が嫌いで、なるべく使わないようにしている。

でも、子供の頃は好きだった。

変化したのはここ数年前からかなあ。

 

頑張っている人に「ガンバッテネ」というのは、もうこれ以上何をガンバレと言うのか!と腹立たしく思えるときもある。

頑張ることが「いいこと」なのだろうか?

なぜ、頑張らなければいけないのだろうか?

いつも自問自答してしまいます。

 

(あっ、「ガンバッテネ」といっている人が悪い人、というわけではありません。逆に、その人はその人なりの善意から言っていることがほとんどだと思います。決して悪気がないことはわかります。でも・・・。)

 

先日、ひろさちやさんの『人生はあきらめるとうまくいく』という本を図書館から借りてきました。

その中に、

私は昔から「がんばれ」という言葉が大嫌いです。

震災直後、連日のようにテレビやラジオからは「日本がんばれ!」と「がんばれ」コール一色でした。まるでオリンピックかワールドカップでもやっているかのような騒ぎです。(p4)

と書いてあったので、ビックリしました。

ひろさちやさんは、仏教に造詣が深い方です。私のように、単なる感情的な理由ではなく、何か論理的な理由で「がんばれ」は嫌いだ、と書かれているに違いないと思い、さらに読み進めていくと・・・。

 

「がんばる」という言葉が日本で市民権を得たのは、1936(昭和11)年に開催されたベルリンオリンピックのときだと言われています。「前畑がんばれ!」という実況中継といえば聞いたことがあるでしょう。(中略)それまでの明治、大正の時代には、「がんばる」という言葉に好印象はありませんでした。それがこの放送で一変したのです。(p34)

 そうだったのか。(まあ、諸説あるでしょうが。) なるほどですねえ。

 

物事には二つの方向性があることを、まずおさえておきましょう。「がんばる」側と「あきらめる」側。この両者は反対のベクトルを向いています。

がんばる方向には、「幸福の公式」があります。欲望を充足させることによって幸福になれるという考え方です。(p30)

(中略)

では、次に「あきらめる」側の幸せの公式について考えてみましょう。

もうこれしかありません。「少欲知足」、あなたの持っている欲をほんのちょっと少なくしなさい。そして「足るを知る」心を持ちなさいということです。

少欲とは、少ない欲ではありません。形容詞ではなく、少なくするという動詞形。(p59)

 重ねて、なるほどですねえ。

 

最近、自分の本を整理しました。今まで大事に持っていた本も改めて見直しして、処分するものは処分しました。手元に残ったのは、10冊ぐらいです。

きっかけは、最近亡くなった義母の大量の「本」を処分したことでした。分量が多いので数日がかりで処分したのです。自分が如何に大事に思っていても、亡くなったあとは遺品という「もの」に過ぎないのです。

そして、家に帰って自分の本を見てみると、本当に残したいのは、10冊ぐらいだったというわけです。

「本」には、拘ってきたつもりでしたが、いざ処分してみるとあっけないものです。「欲望」というものは、何だったんだろう、と少し大げさに考えてしまいました。

 

 

 

人生はあきらめるとうまくいく

人生はあきらめるとうまくいく

 

 

 

ブッダのことば

ある日、twitterを眺めていたら、「お釈迦様のことば」として次のような文章が流れていた。

 

「自分をほめたたえ、他人を軽蔑し、みずからの慢心のために卑しくなった人、―――かれを賤しい人であると知れ。『スッタニパータ』」

 

この文章を読んだとき、これは私のことをいっているのではないだろうか、と思った。特に若い頃はこんな傾向があった。イヤハヤお恥ずかしい。

 

ただ、次に思ったのは、道徳の教科書に書かれているような言葉だけど、このようなことを釈迦は言ったのかなあ?別に釈迦でなくても言いそうな言葉だけど・・・。

 

早速、『ブッダの言葉(スッタニパータ)』(中村元岩波文庫)を開いてみたら、確かにこのように言ってますね。(p35)

 

しかし、別の言い方もありますね。例えば以下のような。

 

「林の中で、縛られていない鹿が食物を求めて欲するところに赴くように、犀の角のようにただ独り歩め。(p18)」

 

「今のひとびとは自分の利益のために交わりを結び、また他人に奉仕する。今日、利益をめざさない友は、得がたい。自分の利益のみを知る人間は、きたならしい。犀の角のようにただ独り歩め。(p22)」

 

「走っても疾過ぎることなく、また遅れることもなく、「一切のものは虚妄である」と知って迷妄を離れた修行者は、この世とかの世をともに捨て去る。ーーー蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。(p13)」

 

それぞれの終わりに書いてある「ことば」は、何か分かるようでわからない。なんとも不思議なことばです。「犀の角のようにただ独り歩め」と言われても・・・。どうしたらいいのだろう。

 

自分で考えろ、ということかなあ?  よく分からない。

 

たまたま読んでいた小説単行本(『太陽・惑星』上田岳弘 新潮社 2014年)に、以下のようなことが書かれていた。

 

最高製品という名前からあなたがたは一体どんなものを思い浮かべるだろう?これ以上ない、最高の製品とは、果たして?それを手に入れたら以後に何も必要としない、文字通りそれさえあれば生きていける製品。しかし、人間がある製品にすっかり満足してそれで生きていくことができるだろうか?もし、この上ない満足感を得ることができたなら、それは終わりを意味するのかもしれない。完璧な満足感をもたらしその後の人生を余生と化してしまうもの、そんなものを私は作りたくない。それは人々が望むものでもないはずだ。あなたがたは未来志向ではあるが、どこか未完成で、しかし先に広がる可能性を感じさせるものをいつも求めてきた。つまり、最高の満足感を与えるものは、最高製品になり得ない。むしろその逆で、最高製品はいつまでも未完成な状態を人々に際限なく見せ続けるものでなければならない。(p144〜145)

 

設定、前提が異なるので、ちょっと迷ったのだが、言い回しというか表現が丁度ぴったりだったので引用させていただいた。

ブッダのことば」としては、道徳的なものよりも、「犀の角のように歩め」などという、よく分からないけど何かを言わんとする「ことば」の方が 、「未完成な状態」に近くて、個人的にはいいなあと思う。

 

ブッダのことば―スッタニパータ (岩波文庫)

ブッダのことば―スッタニパータ (岩波文庫)

 

 

 

太陽・惑星

太陽・惑星

 

 

桜梅桃李と楊梅桃李

久しぶりに記事を書いています。

 

(母の入院・手術や義理の母の葬儀などが重なり、しばらくドタバタしてました。ようやく落ち着いてきたところです。イヤハヤ。)

 

ちょっと前にtwitterで興味深いつぶやきがありました。↓

 

これに関連してこういうつぶやきがありました。↓

「20年くらい前、桜梅桃李を疑うことすら知らなかった時代に、Yさんに教えられて、自分の理解について、頭がクルクル、足下フラフラしました。」

 

「桜梅桃李」ではなく「楊梅桃李」・・・多くの人にとっては、「あっ、そう」で終わってしまうことでしょうが、ある一定の人にとっては、「頭がクルクル、足下フラフラ」するほどの衝撃なのです。私もビックリしました。今まで、大前提で疑うことすらしなかったことが、ひっくり返されたのです。

 

この衝撃がどのような仕組みなのかを説明しようと思いましたが、なかなか言葉が出てきませんでした。ある日『「心」と戦争』(高橋哲哉 晶文社 2003年)という本を読んでいたとき、下のような文章にであったのです。

 

心のノート』を九年間、友として、対話の相手として育ってきた子供たちは、現存するものを疑う心、それを批判的に見る心をはたしてもつことができるでしょうか。非常に疑問です。

たとえば、ソクラテスにしてもデカルトにしてもカントにしても、懐疑や批判の精神は哲学の精神そのものであって、哲学はそれなしには始まることがなかったでしょう。懐疑や批判を通して確かなものとそうでないもの、妥当なものとそうでないもの、まっとうなものとそうでないものを区別していく。哲学や思想の営みの核心にはそういう部分があります。

たとえばデカルトならば、当時の学問が確実なものを何も与えてくれないのは中世以来の因習化した教育の枠組みのせいなので、いったん自分がそれまで正しいと思ってきたことを全部誤りだと仮定して、すべてを疑ってそれでも何が確実なものとして残るだろうか、いったん全面的に懐疑の試みをやってみようとして、哲学が始まった。(『「心」と戦争』 p41)

 

 私自身、2011年頃から、それまで自分が信じていた宗教(創価学会)が本当は何だったのかを知ろうと決意して、様々な本を読み始め、さらにネットで多くの情報を探してきました。その中で、今まで当然と思ってきたことがもろくも崩れ去る経験を何回もしました。先ほどの「桜梅桃李」もその一つです。ある人からは、考えるときには一切の思考停止領域を設けてはならない、とアドバイスされました。そうすると全てを疑うということにならざるを得ません。しかし、これがなかなか難しい。今、私のいる時代的・地理的制約が、じみ〜に思考に影響しているのです。過去の影響から完全に脱却することは至難の技です。少しでも影響を少なくしながら、現在に至るまで情報を集め思考実験を繰り返しています。

 

先ほどの本には「すべてを疑ってそれでも何が確実なものとして残るだろうか」とありますが、正直、不安になりますね。懐疑を徹底したら何も残らないのではないかと。私自身は、今のところ初期仏教の三法印(諸行無常一切皆苦諸法無我)で、とどまっていますが、それさえも懐疑の対象であることには違いないのです。

 

今はまだ登山の途中かもしれません。頂上に立ったとき何が見えるか?あるいは何もないかもしれない。

けれど一歩一歩、あゆんでいこうと思います。ちょっと怖いけど。

 

 

 

イノセンス〜自分には責任がない

イノセンス」〜テレビドラマのことを書いている訳ではありませんので念のため。

 

図書館本『人間の終焉』を読み終えた。私には内容はあまり理解出来なかったが、最後の方に大澤真幸(おおさわ まさち)氏の「解説」が載っていて、そこには大変興味深いことが書かれていた。

 

それは、本書に関連して、芹沢俊介氏のエッセイ「イノセンスが壊れる時」を紹介した部分です。

ここで、芹沢俊介の含蓄深いエッセイ「イノセンスが壊れる時」を援用してみよう。このエッセイで、芹沢は、人はいかにして責任を担いうる主体―――つまり選択の主体―――へと成熟していくのか、という問題を扱っている。

 

芹沢は、生の始発点における子どもの状態を「イノセンス」という語によって表現する。彼は、この語を、あえて、あらゆる情緒的な含みを排した上で、使用している。イノセンスとは、無罪だということ、つまり「自分には責任がない」ということである。子どもはこういう意味で―――純粋だとか無垢だといった情緒的な意味ではなく、まさに無罪であるという記述的な意味で―――イノセントである。子どもは、というよりそもそも人間はすべて、この世界に存在しているということ―――自分が生まれてきたということ―――に関して責任がないからである。さらにまた、人間は、自分がこの世界で何者かとしてあるということに関して、たとえば男性(女性)であるということ、ある名前をもつということ、この両親の子であるということ、黄色人種であること、「日本人」のようなある特定の共同体の中に生まれたということ、こういったさまざまな性質に関して、責任がない。今、ここに存在しているということ、また何ものかとしての性質をもって存在しているということ、これらは、子どもからすれば、何の理由もなく偶然に与えられた条件であり、それらに関して、彼には何らの責任はない。そして、これらの偶然的な条件に関してすべてに責任がないとすれば、そのことに因果的に規定されている後続のあらゆる行為に関して、人は責任がないということになるだろう。子どもは、そして人間は、本来的に受動的なのである。(p314〜315)

 

芹沢俊介氏に関しては、以前、『「存在論的ひきこもり」論』を読んだとき、ひきこもり側に立った視点の置き方に驚いたことがある。その芹沢氏のエッセイ「イノセンスが壊れる時」が、大澤氏によって説明されているのだが、「イノセンス」という視点が、『「存在論的ひきこもり」論』とどこか共通しているように感じた。(同じ人だから当然か。)

※ 参考記事:「読書メモ『「存在論的ひきこもり」論』」

 

イノセンス」という捉え方は、ちょっと馴染めないかもしれないが、よくよく考えてみればたしかにその通りだと思う。人によっては、生まれたことに対して、「因果応報」、「神に与えられた・・・」、「地涌の菩薩の使命を」等々、何らかの物語をかぶせて、納得させている場合もあるようだが、物語性などの「あらゆる情緒的な含み」を除いてありのままに考えたとき、「責任がない」ということが最も基本だと思う。

 

大澤氏は続けて以下のように述べている。

人は、その本来の受動性から離脱しなくては、選択の主体になりえないのだ。この「本来的な与件の書き換え」、この離脱はいかにしてなされるのか。これが芹沢の問いである。(p315)

 

 この切り替えがよく分からない。

たしかにどこかで「その本来の受動性から離脱」しなくてはならないかもしれないが、あるいはそのまま継続してしまうかもしれない。今まで多くの人々は、意識しないまま流れのままに切り替えて生きているのだろう。そうでない人たちはいつのまにか取り残されている。そういう人たちが混在しているのが現代なのかもしれない。

 

 

 

人間の終焉

人間の終焉

 

 

 

「存在論的ひきこもり」論―わたしは「私」のために引きこもる

「存在論的ひきこもり」論―わたしは「私」のために引きこもる

 

 

進歩と退歩。

前回の記事の続きです。

今の〈進歩〉の時代の前には、〈退歩〉という長い時代があったそうです。

その功罪はともかく、ヨーロッパ社会における〈進歩〉観念の出現を抑制してきたものはカトリック教会の存在でした。キリスト教の世界観は〈退歩史観〉を基調としているからです。神による世界創造の時点が絶頂期であり、それ以降、人類は堕落の一途をたどっていくというのが根底にある世界観です。(『輪廻転生』(竹倉史人 講談社) p125)

 キリスト教最大の会派が、カトリック教会のようです。

〈退歩史観〉というのは、あまり馴染みがありません。どのようなものなのでしょう。

 

世界が退歩していくという観念はイメージしにくいかもしれませんが、じつはこれは非常にシンプルな感覚に基づいています。物に対する感覚と同じだからです。買ったばかりの時にはピカピカだった新品も、時がたてばボロボロになります。つまり物は作られたときが最も完全に近く時とともに劣化し、最後には瓦壊します。もし人びとが、世界や人間も被造物であると考えるならば、それが物と同様、磨耗したり自壊しながら終末に向かっていると考えることはむしろ自然なことです。(p125〜126)

 

これは、多分にキリスト教的な発想かな?と思ってしまいます。たしかに人間の身体は加齢とともに劣化します。この退歩史観の考え方の前提として「被造物であると考えるならば」とあります。神の創りたもうたものであるならば・・・ということでしょうか。

仏教の一部には、「末法思想」というのがあります。単純に比較はできないでしょうが・・・。

 

進歩史観〉は、人間を神から解き放つ、という意味で一定の役割を果たしたことは評価されて良いと思います。

 

著者である竹倉氏は、次のように述べています。

世界や人類が劣化しない、それどころかよりよきものになるという考えが広まるということは、裏を返せば、世界の被造物性に対する感覚が減衰しているということでもあります。ともあれ人類史という大きな視点からみれば、進歩史観がいかに不自然かつ特殊なものであるかがわかります。どれだけ「普遍」や「真理」を僭称しようともそれはひとつの視点であり、解釈であり、仮構(イデオロギー)にすぎません。(p126)

 

私としては、〈進歩史観〉について、評価できる部分もあれば、そうでない部分もあると思っていますが、だからといって〈退歩史観〉かというと、これもちょっと・・・。「被造物」として考える、ということが理解できないので、違和感を感じます。

 

キリスト教に馴染みが薄い日本の場合、ヨーロッパ的な〈退歩史観〉の時代があったとは思いませんが、明治時代以降、西欧文明を取り入れると同時に、積極的に〈進歩史観〉に染まってしまったように思います。1945年の軍事的大敗を乗り越えて、今度は経済の面で成長路線をまっしぐらに進んできた歴史があります。しかし、その〈進歩史観〉も次第に揺らいでいるように感じます。

 

日本において、〈退歩史観〉が受け入れられるかどうかは分かりませんが、〈進歩史観〉も選択肢の一つにしか過ぎないのだということが、次第に受け入れられていってほしいと思います。

 

 

 

 

 

輪廻転生 〈私〉をつなぐ生まれ変わりの物語 (講談社現代新書)
 

 

 

成長!成長!また成長!

昨年、NHKの「欲望の経済史」というシリーズものの番組を見ていて、成長!成長!また成長!というひとつの時代が終わりを告げようとしているのではないかと感じた。日本で言えば、戦後の高度経済成長を柱とした世の中のしくみが、様々な面でひび割れを起こしているように思われる。何より自分自身が、今まで疑うことのなかった様々なことについて疑問を持ち始めたのだが、その根本的なところは、このような成長、進歩、成熟というような考え方に対してだと感じている。

 

そんななか、たまたま図書館で『輪廻転生』(竹倉史人  講談社  2015年 )という本を借りてきて読んでいたところ、「進歩史観」、「退歩史観」についての記述が目についた。西欧の心霊主義等についての説明のなかで出てきたものである。今の資本主義の萌芽が、西欧の17〜19世紀にあったということが書いてあった。この輪廻転生についての本のなかで、成長主義的な生き方を問い直すきっかけが見つかるとは予想だにしなかったことで大変驚いている。

 

現代の高度資本主義社会を生きる多くの人にとって、〈進歩〉の観念はじつに馴染み深いものとなっています。しかし、このような考え方が広がり始めたのは、せいぜい200年前のことにすぎません。

それ以前は――――現代人にはなかなか想像しがたいですが――――むしろ人類は退歩していると考えるほうがはるかに自然なことだったのです。

 

〈進歩〉の観念は人類史に忽然と登場したわけではありません。それが現在のようなリアリティを獲得するためには、長いプロセスをへて、旧世界を支配していた強固なパラダイム(=退歩史観)を打ち破る必要がありました。進歩の観念が強固なものとなったのは近代以降の工業化社会においてですがここに到達するまでには、17世紀以降の科学革命と啓蒙主義の普及、そして19世紀の産業革命と、いくつかの歴史的転換点を通過する必要があったのです。(p123〜124)

 

えっ「退歩」?  一瞬、戸惑いの思いが頭をよぎりましたが、読み進めていくとキリスト教の影響があるようです。

 

長くなりそうなので、この辺で一回目を終了させていただきます。

 

 

 

輪廻転生 〈私〉をつなぐ生まれ変わりの物語 (講談社現代新書)
 

 

ウンチの語源

2017年は、『うんこ漢字ドリル』が話題になったようだ。小さい子の間では、「ウンチ」、「ウンコ」という言葉が大変人気があるらしい(笑)。

 

私としては、「ウンチ」と「ウンコ」をどのように使い分けたら良いのかが疑問だった。

使いやすいのは、「ウンコ」かな?

 

たまたま図書館から『ウンコ ミュニケーションBOOK』を借りてきて読んでいると、「ウンチの語源」というコラムがあり、ウンチに関連する言葉について書かれてました。以下に引用させていただきます。

ウンチの語源

🌑  ババ(ベベ)

        太古以来、日本や太平洋諸島では「ババ」「ベベ」とか呼んできた。これは、少し柔らかめのウンチを排泄するときの音から来ているとされる。

🌑  クソ

       チベット語であるという説があるが、はっきりしていない。数千年前には日本に入ってきた言葉とされている。

🌑   糞(フン)

        ウンチをするときに「ふんっ」息む呼吸音からきているとされる。

汚ないという意味で使う「ばばっちい」は、「ババ」と関係あるのかなあ?

 

さて、次からいよいよウンチとウンコが登場します。

🌑   ウンチ

        仏教で陰陽を表す「阿吽(あうん)」という言葉がある。中国仏教では大小便を「吽(うん)」と呼び、肥溜めを「吽置(うんち)」と呼んだ。これらが奈良時代の日本に伝えられ、上流階級が使う言葉として定着した。

🌑   ウンコ

        中国文化が入ってくる以前の日本や太平洋諸島には、小さなモノを「〜こ(子)」と呼ぶ習慣があった。これが中国から伝えられた「吽(うん)」と融合し、鎌倉・室町時代にはウンコと愛称されるようになった。ただし、大便のほうだけをそう呼び、小便のほうは曖昧であった。ちなみに、室町時代において「ウンチ」は教養ある大小便の呼び方で、「ウンコ」はやや教養ある大便の呼び方であったらしい。「ババ」や「クソ」は大衆語としての呼び方であったらしい。

🌑   便(べん)

         1100〜1200年代の中国(南宋北宋の時代)に仏教寺院から発生した言葉で、日本には1500年代に仏寺の中に定着したと言われている。大便・小便という表現は、江戸時代の医官の間から発生したとされる。(p66)

なるほどですねえ。中国文化の影響もあったのですね。「ウンチ」も「ウンコ」もあまり大きな違いはない、ということにしておこう。

 今の中国では、何と言うのだろう?

中国語で「うんこ」の事は何と言いますか?漢字と読みを教えてください。... - Yahoo!知恵袋

 

 

念のため、この『ウンコミュニケーションBOOK』では、人間の健康にとって「腸内細菌」が大きな影響を与えている、ということなどが書かれています。腸の働き具合のチエックとして、ウンコが大きな役割を果たしているのです。「あとがき」にある「3つのウンチ力(つくる力、育てる力、そして出す力)」は、本当に大事だなあ。

おいしく食べることも大事だが、スッキリ出すことも大事だと感じました。

 

参考:辨野義己(べんの よしみ)先生 - 一般社団法人 食と健康推進協会 F&H

 

ウンコミュニケーションBOOK―ウンチは人格だ!

ウンコミュニケーションBOOK―ウンチは人格だ!

 

 

 

日本一楽しい漢字ドリル うんこかん字ドリル 小学1年生

日本一楽しい漢字ドリル うんこかん字ドリル 小学1年生