ガラガラポン日記

複雑になってしまった問題を、一度ゼロにして、考え直してみる。

仏教雑感〜「プラス」と「マイナス」

ある人からもらった手紙の中に「人格の成熟という仏教本来の目指したもの・・・」という一文があった。たしかに人格の成熟というのは、ここまで出来たら完成という固定的なものではないようだ。人間の心は常に変化する、という前提にたっての人々の努力目標、のような設定であろう。それは理解できるのだが、はたしてそれが「仏教」のめざすものなのか、という微かな違和感を感じた。それは、仏教の倫理学的な面を強調したものではないだろうか。それはそれで意味があると思うのだが。

 

あるとき「仏教は、プラスでもなく、マイナスでもなく、限りなく「ゼロ」を目指すものではないだろうか」と思い付いた。単なる思い付きなので、裏付けはない。いやはや。

 

参考記事:ゼロと空哲学  (あくまで参考です。)

 

「プラス」というのは、「人格の成熟」というような、多くの人にとって理想とすべきものをイメージしている。

 

では、「ゼロ」とは何か? よくよく考えてみると、これは極論すれば「死」と考えられる可能性があることに気がついた。いやいや、それはちょっと違うんだけど。「死」とか「生」という物語を越えたところにあるなにものか、例えば「空」などを指している、と言いたいのだが、何とも説明しづらい。

 

では「マイナス」というのは、どうなんだろう、と考えた。考えてみれば、「マイナス」なんてあり得ないなあ、と思い始めていた。そのとき、ちょうど興味深い本の一節を見つけた。

 

その本の著者は、法然の『一枚記請文』を引用して、

法然思想はここへ帰結します。従来の道では歩めぬ者のために法然の教えは開かれました。そのためにこそ、法然は仏教を再構築したのです。すなわち「愚者の仏道」「悪人の仏道」です。人を傷つけずには生きていけない者、ウソをつかねば生きていけない者、自分ひとりでは生きていけない者、この者のためにこそある仏道なのです。
これを法然は、「愚者になりて往生する」と表現しました。これは驚くべき仏道であるといえるでしょう。仏教は智慧を目指す宗教であるのに、愚者に成る仏道なのですから。まさに仏教の極北です。

(p91『死では終わらない物語について書こうと思う』釈徹宗 文藝春秋 2015年)

 参考記事:『死では終わらない物語について書こうと思う』を読んで。

 

なるほどですねえ。こういうような見方もあったのか。愚者というのは、仏教的な知識を有しない一般の人々という意味かもしれない。これはあえて逆説的に示すことで、仏教の奥深さを教えてくれたとも言えそうである。通常は、望んで「愚者」になろうとはしないだろう。これを表現上、「マイナス」と捉えてもいいかもしれない。(しかし、この「愚者」のなかに、残虐な殺人などの行為をおこない、反省しない人を入れるのは個人的には反対だ。)

 

そうするとようやく「プラス」と「マイナス」が揃った。

 

死では終わらない物語について書こうと思う

死では終わらない物語について書こうと思う

 

 

 

 

仏教雑感〜一切衆生

「一切衆生」という言葉は、個人的にはなじみが深い。 

 

  「一切」とは、すべてという意味らしい。  

衆生」という言葉には、「一切の生きとし生けるもの(生類)のこと」(Wikipedia)という意味らしい。

「一切衆生」というのは、この世に生を受けたすべての生き物、特に人間をいうとされる。「一切」と「衆生」とは、共に「すべて」という意味を持っている。同義語を重ねることによって「すべて」の意味を強めたとされる。

 

しかし、『仏教思想のゼロポイント』(魚川祐司 新潮社)を読んでいて驚いた。ブッダが、「梵天勧請」によって説法を決意したとき、「一切衆生」を対象とするのではなく、聞く耳を持つ一部の人に限られていた、ということである。

そこで梵天は、世の中には煩悩の汚れの生まれつき少ない衆生も存在するし、彼らは法を説けば理解するだろうと言ってゴータマ・ブッダへの説得を試みた。そして、そのような梵天の懇請を受けた彼は、さきほどふれたように、「衆生へのあわれみの心によって」、仏の眼(buddha-cakkhu)をもって世界と衆生を観察する。

(中略)

そして、そのように観察したゴータマ・ブッダは、ついに説法を決意して、「彼らに不死の門は開かれた」と、開教を宣言する。「彼らに(tesam.)」という言葉は文脈上、煩悩の汚れの少ない、機根(才能)のある者たちのことを指しているのは明らかだから、少なくともゴータマ・ブッダの仏教は、「一切衆生」を対象とするものではなく、あくまで語れば理解することのできる一部の者たちを対象とするものであったことが、ここで確認できることになる。(p168)

 

日本仏教、その中の「日蓮」の手紙(本物と後世の作が混ざっているらしいが) の中に、「一切衆生」という言葉は、282件検索された。(日蓮大聖人御書全集全文検索)

北伝仏教(大乗仏教)の流れの中で、いつのまにか「一切衆生」を対象とする、というのが、仏教の基本となっていたようだ。

 

個人的に思うのだが、「一切衆生」を対象とするのが 理想だが、実際には「理解することのできる一部の者たち」を対象とするのが現実的であろうと思う。それと共に、初期仏教の意味するものが、中国、日本へと伝わる中で、まさしく「壮大な伝言ゲーム」(植木雅俊)と化しているのには、改めて驚かされる。

 

 

 

仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か

仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か

 

 

 

節電のためにテレビ放送を数時間休止してはどうだろうか?

私の住む北海道で大きな地震があった。電力が「ブラックアウト」という現象で停電した。その後、多くの人の努力で復旧したが、まだまだ不安定である。その中で、地震前の電力消費量の2割節電という要望が、政府などから出てきた。

 

節電の是非はともかく、計画停電は避けたいと思い、我が家でも不要不急の電気は消すようにしている。テレビもなるべく消すようにしている。公共交通機関や百貨店・商店・企業なども節電に協力している。

 

その中で私が不思議に思うのは、北海道内のテレビ局の対応である。数時間の「放送休止」を行っても良いのではないだろうか?

私は、以下のようにつぶやいてみた。

 

東日本大震災の時に同じようなテレビ放送休止の提案があったようである。無視されたようだが。↓

 

テレビ局は、「神様」なのかなあ?

 

二種類の仏教

ある仏教学者の書いた随筆を読んでいて、「仏教の教えは人格完成のための教育学であり人間学であるということができる」という文章を見かけた。その前後の文章を下記に引用してみます。

 

釈尊は低い立場から次第に高い立場へと人々を誘導することに注意された。自然の状態では、人々は信仰以前の幼稚な立場にあるから、これに初歩の信仰をもたせ、次第にその信仰を高めて第一義の立場に入らしめるのが仏教の目的である。このことは法華経の長者窮子の譬喩の中にも示されている。この点で仏教の教えは人格完成のための教育学であり人間学であるということができる釈尊が常に用いられた教化誘導の方法は次第説法として伝えられている。これは仏教をまったく知らない人を次第に仏教信仰に導き、悟りに至らしめる方法である。(p13)(『北海道駒沢大学研究紀要11』「仏教研究雑感」水野弘元 (CiNii 水野弘元 で検索可能。PDF ダウンロード必要))(太字は、管理者による。)

CiNii Articles 検索 -  仏教研究雑感  水野弘元

 仏教の長い歴史を眺めると、たしかにそうかもね、と思うのだが、今の日本でもそうなのかと問われれば、選択肢の一つではあろうけれども、その重要性は低下しているのではないかと言わざるを得ない。

 

今の日本に伝わるブッダの対話を読んでいると、たしかに教育学であり人間学であったと思える。

(子供を亡くした母親に対するブッダの教えが参考になる。詳しくは、下記の記事へ。↓

 Episode15:子を亡くした母へブッダの教え——仏弟子キサーゴータミー | マハーヨーギー・ミッション 東京

対話により「気づき」を促す様子が分かりやすい。)

日本でもたぶん江戸時代までは、仏教というのは「教育」の相当な部分を担っていたと思われる。

 

 

今はどうであろうか?様々な情報が行き交い、学校を中心とする「教育」のシステムは確立し、そこに仏教の入る余地は少ないように思われる。戦後の宗教運動によって生まれ又は成長した仏教系宗教団体のいくつかをみても、少しは人格完成のための仏教を掲げているように見えるが、実際のところはどうであろうか。

 

 

『仏教思想のゼロポイント』(魚川祐司 新潮社 2015年)の中に、「瞑想しても人格はよくなりませんよ」というある日本人修行者の言葉が紹介されていた。そのあとの著者の記述が興味深いので引用させていただく。↓

もとより「瞑想」と一口に言っても、その種類は様々である。(中略) だが、ゴータマ・ブッダの仏教の目標である解脱・涅槃を得るための瞑想法-----例えばテーラワーダで言えばウイパッサナー-----は、それを修することの直接的な結果として、世俗的な意味で役に立ったり、人格がよくなったりすることはないし、またそうなることを、原理的には期待できないものである。

第1章でふれたとおり、ゴータマ・ブッダの仏教は、私たち現代日本人が通常の意識において考えるような「人間として正しく生きる道」を説くものではなく、むしろ社会の維持に欠かせない労働と生殖を否定し、そもそもの前提となる「人間」とか「正しい」といった物語を破壊してしまう作用をもつ。(中略)

「人格」について言っても同じことで、どのような人格が「よい」とされ、どのような人格が「悪い」とされるかは、その場の文脈、言い換えれば、そこにいる人々が共有している物語によって変わってくる。(中略) 要するに「善と悪」という区分は基本的には物語の世界に属するものであり、そして解脱とは愛執のつくりだすそうした全ての物語から解放されることであるのだから、その境地には通常の意識で私たちが想定するような「善」も「悪」も存在し得ないということだ。(p65〜66)

 

 上記のゴータマ・ブッダに関する部分は、現代日本の「仏教」のイメージからすれば大いに異なっている。たぶん、日本の仏教者からは「これらは、南伝仏教のことを意味しており、現代日本に通用している仏教(北伝仏教、大乗仏教)とは、次元が違う」と言われそうである。

 

初期仏教・南伝仏教大乗仏教とでは、同じ「仏教」なのに何でこのように異なるのか?

 

私は、どうしても北伝仏教(大乗仏教)の考えに長く馴染んできたので、仏教の理想としては、円満な人格者、非の打ち所のない善人等ということをイメージしてしまう。

しかし、魚川氏が述べているように、人格の良し悪し、何が善で何が悪か、ということは時代や地域によって異なり、究極的には「物語の世界」に属するものとも言える。

 

個人的に思うには、どちらもそれぞれの存在理由があって、どちらかのみを選択することはできないので、両方のイメージを抱えながら、仏教というものに思いを巡らせて行きたいと思っている。

 

 

 

仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か

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大乗非仏説をこえて: 大乗仏教は何のためにあるのか

大乗非仏説をこえて: 大乗仏教は何のためにあるのか

 

 

 

物語と宗教

暑いですねえ❗

私の住む北海道は、最高でも気温30度前後。でも夕方には涼しくなります。ですから、35度以上の気温や熱帯夜は想像できませんね。

 

そんな中、きょうは、久しぶりに記事を書いてみようと思いました。最近、思いを巡らせている途中ですが、物語と宗教ということを考えてみました。

 

『仏教思想のゼロポイント』という本を読んで、「宗教」と「物語」という視点、繋がりを知りました。

その後、「物語」という言葉の入ったタイトルの本を数冊読んでみて、今の段階で考えていることは、人は生きていく上で、何らかの「物語」を必要としている、ということでしょうか。その「物語」の中に生じた一つのものが「宗教」ではないだろうか?

そんなことを漠然と思っています。

 

古代インドで、目覚めた人であるブッダは、当時の大多数の人々が思い描いていた「物語」を根本から覆した。三法印(諸行無常一切皆苦諸法無我)を説いたこと、さらに、「無記」ということを示したことに象徴されると思います。(無記とは、死んだらどうなるのか?宇宙はどうなのか?という質問にたいして、「沈黙」で答えたということですね。)

三法印」と「無記」。この部分だけ考えてみても、「初期仏教」が哲学的であり、尚且つ根本からの認識変革を教えているように思います。

 

今の世の中には、様々な「物語」が溢れていると感じます。中でも「宗教」と「経済」は、自分の生活に大きく影響しています。これらに含まれる主要な「物語」を解読し、人々の意識の中からそれらの物語をはずす、あるいは「物語」としてみることが出来るだろうか?というのが私の最近のテーマの一つです。

 

「宗教」については、ブッダの説いた「三法印」が良い手がかりとなりました。この視点からみると、今の日本に見られる大乗仏教との違いが目立ちます。もちろん、他の様々宗教も検討の対象としなければならないでしょうが。

 

「経済」については、最近は「資本主義の終焉」という言葉をよく見かけます。中世の封建制度から脱却し、一路、成長拡大路線を歩んできた資本主義に陰りが見えてきたというものです。資本主義という「物語」を抜け出し、どのような新しい「物語」を作っていくか。大変興味深いテーマです。

 

 

≪個人の感想≫

 

◎  自分の思い通りにいかなかった場合、あるいはその逆で、思い通りになった場合、そこに「物語」を当てはめることによって、自分なりに納得させることができる、と言うのは、ある意味「物語」の特性のひとつかもしれない。ただ、それを他の人にも適用できるかというと必ずしもそうではないだろう。あくまで、個人の感想、として成り立つもののような気がする。

 

 

 

 

仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か

仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か

 

 

 

 

 

物語の役割 (ちくまプリマー新書)

物語の役割 (ちくまプリマー新書)

 

 

 

私のブログもそろそろご臨終かな?

先日、Twitterでこんなブログの記事を見かけた。

 

www.procrasist.com

 

 

 

2年以上ブログを継続される方(あるいはグループ)が、思った以上に少ないことに驚いた。私の場合は、既に2年以上経過している。ブログを始めた頃は、こんなに長続きするとは思ってもいなかった。多くの人に見ていただき、感謝の言葉しか思い浮かばない。私の記事で不快な思いをされた方がいたかもしれない。お詫び申し上げる。

 

ここ数年の間に、(私の知る範囲で)新しいブログをいくつも発見している。それらの記事を読むと分かりやすい文章で知識も豊富である。何より自分の頭で考え、自分の言葉で発信している。読んでいて楽しい。それと同時に自分のブログがそろそろ終了の時を迎えたことを感じている今日この頃です。

 

 

読書メモ『評価と贈与の経済学』

図書館から『評価と贈与の経済学』(内田樹  岡田斗司夫FREEex  徳間ポケット  2013年)を借りてきた。

 

本の表紙の裏に、

異なるフイールドで活躍するふたりの知の匠。

くしくも見解の一致をみた、ポスト資本主義社会における新しい共同体のかたちとは。

と書いてあった。よくまとまってるなあ。

 

岡田斗司夫さんは、今の社会は「イワシ化」しているという。

イワシって小さい魚だから、普段は巨大な群れになって泳いでいる。どこにも中心がないんだけれども、うまくまとまっている。自由に泳いでいる。これは見事に、いまの日本人なのではないかと。そのときの流行りとか、その場限りの流れだけがあって、価値の中心みたいなものがなくなっているんじゃないかと思いますね。

イワシ的にシステム全体がなんとかうまく動いているおかげでまとまっているように見えますが、突発的になにかが起きたら容易にバラバラになる。(p24〜25)

 社会の一断面をうまく表現しているなあ。

 

      ※  参考記事:なぜいわしは群れるのか - 小人さんの妄想 

 

「新しい共同体のかたち」というのが大変興味深い。

「家族」中心の形態にとらわれず、他人が数人集まって疑似家族のようにして生活する形態が選択肢のひとつとして提案されている。(本書では、「拡張家族的な共同体」とも表現されている。)

これは「おひとりさま」といわれる人が次第に増えている現状を見ると、社会に受け入れられそうな考えだ。特に私のような高齢者などは、「おひとりさま」になったとき、生活上の不安が大きいので、疑似家族のような住み方が大変参考になる。

 

「贈与経済、評価経済」という章がある。

内田樹

サッカーって、そういう点ではほんとうに贈与と反対給付の人類学的な叡知をグラウンドで鮮やかに見せてくれるんですから。パスラインが多彩な人、誰も考えなかったようなラインにパスを出す「ファンタジスタ」がゲームのキーパーソンになるんですからね。(p150)

 今、テレビなどでは、ワールドカップの話題で盛り上がっているが、意外なところにサッカーの話が出てきたので驚いている。贈与経済の視点でみるサッカーか。これはこれで面白そう。

 

評価と贈与の経済学

評価と贈与の経済学