ガラガラポン日記

複雑になってしまった問題を、一度ゼロにして、考え直してみる。

再び、Twitterから。

 

これは、本当にそう思う。「ただそんな生活がしたいだけ」なんです。

 

 

人は、表情や見かけだけでは分からない。こちらが思っている通りの人もいれば、まったく別な心の人もいる。ただ口に出さないだけで、心の中は分からない。こればかりは、何とも分からない。

 

明日は・・・いよいよ平地にも冬がやって来るようだ(((^_^;)

 

Facebook 「花の写真館」より。

 


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Twitterで癒されている(^_^)

閑話休題

Twitterは、主に情報収集のために利用している。自分から発信することは少ない。

Twitterを眺めていると、きれいな花や景色が流れてくる。そして、心に響く、言葉がある。自分がうちひしがれているとき、これらの写真や言葉を見ると癒される。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最後に自分のものを。

読書メモ『ビッグデータの正体』

 『ビッグデータの正体〜情報の産業革命が世界のすべてを変える』(ビクター・マイヤー=ショーンベルガー、ケネス・クキエ、斎藤栄一郎訳  2013年 講談社)を読了した。

 

あるブログ(「古本屋の殴り書き」)で紹介されていた本だった。

 

読んでみて、驚いた。ネットも含めて世の中のあらゆる情報が集められ、膨大な数式などを基に相関関係などが炙り出され、それが大きなビジネスチャンスになっている。今、このブログを見ていることもすべて情報として集められている、ということに驚いた。街中にある監視カメラどころの騒ぎではない。

本書では、 映画「マイノリティ・リポート」が取り上げられているが、近未来の犯罪予防が、現実になるかもしれないのだ。

ビッグデータは大変革の始まりを告げるものだ。望遠鏡の登場によって宇宙に対する認識が深まり、顕微鏡の発明によって細菌への理解が進んだように、膨大なデータを収集・分析する新技術のおかげで、これまではまったく思いもつかぬ方法で世の中を捉えられるようになる。やはりここでも真の革命が起こっているのは、データ処理の装置ではなく、データそのもの、そしてその使い方だ。(p18〜19)

正直、イメージがつかめないが、何やらまったく別次元の世界が広がりつつあるらしい。

水道橋は都市発展に道を開き、印刷機は啓蒙思想の普及を促し、新聞は民族国家の台頭を後押しした。しかし、元々、こうしたインフラは、水や知識の流通のために生まれた。それは電話もインターネットも同じだ。一方、データ化は人間の理解力を基本的に向上させるものだ。従来、世の中は自然現象や社会現象といった出来事の連続と説明されてきたが、ビッグデータ的に見れば、情報があふれる空間そのものなのだ。

100年以上も前から物理学者らは、すべての礎となっているのは原子ではなく情報だと訴えてきた。どう見ても凡人には理解できそうにない話だ。それがデータ化で変わる。ある存在の、目に見える部分と目には見えない部分をはるかに大きなスケールで把握・計算し、行動できるようになったからだ。

言い換えれば、世の中は情報の塊、つまり膨大なデータの集まりということになる。そのような視点は過去に例がない。(p149)

 「すべての礎となっているのは原子ではなく情報だ」というのもよく分からないのだが、発想を変えることによって見えてくるのかなあ?

 

ビッグデータのマイナス面も指摘されている。その一つが「プライバシーの麻痺」と表現されている。

従来、プライバシー保護のために使われてきた3大対策が、「個別の告知と同意」、「データ利用拒否を本人が通告できる制度(オプトアウト)」、「匿名化」だ。ところがビッグデータ時代には、この3大対策の効果が大幅に薄れてしまう。現時点でもプライバシーが侵害されていると感じるユーザーは多い。(p233〜234)

 

この本を読むと、時代が凄いスピードで変化していると感じる。人々の思考方法も、因果関係中心から、相関関係中心へ変化せざるを得なくなっている。後世の人から見ると、現代は、大きな変化を遂げた時代と言われるのかもしれない。

 

 

 

www.cinematoday.jp

 

 

ビッグデータの正体 情報の産業革命が世界のすべてを変える

ビッグデータの正体 情報の産業革命が世界のすべてを変える

 

 

読書メモ『先入観はウソをつく』

武田邦彦さんの『先入観はウソをつく~常識や定説を疑い柔軟な発想を生む方法』(SB新書 2017年)を読み終えた。

先入観というものは、必要なものもあるが、妨げになるものもある、と言う。マスコミや専門家の言うことを鵜呑みにしてはいけない、疑う癖を持ちなさいと忠告している。例えば、「太陽の色は赤」「森林が二酸化炭素を吸収する」「石油はいずれ枯渇する」「地震や火山噴火は予知できる」「国の負債は1000兆円」「増税しないと財政破綻」「文系・理系」「血圧の適正数値」などなど。

 

先入観を最初に植え付けるのは「親」であり、「学校」であり、更に「学者・大学教授・お医者さん・国・マスコミ・・・」とつづく。

では、どうすればよいのか?

その答えは第1章でお話しした「受け入れ箱」と「比較箱」を脳内に用意しておくことが大切です。どんなに偉い人の話であっても、「その話は本当なのだろうか?」とまずは疑ってみる。その後、自分で調べたり、あるいは第三者の意見を聞いたりしてみて、その話が真実かどうか確かめるべきです。(中略)

 

たとえば、「森林がCO2を吸収する」については、「成長した青年期の木以外は光合成を行わない」、「石油がやがて枯渇する」は、「石油会社は本当のことを言わない。石油系エネルギーは1万年分ある」、「地震や火山の予知ができる」は、「これまでに予知できた地震は一つもない。予知できれば多くの人が亡くなることはなかった」、「血圧の適正数値」については、「血管は年をとるごとに固くなっていくもの。だから、年齢+90㎜Hgでよい」と考えておけばよいのです。

 

「肩書きに惑わされて、事の本質を見落とすな❗」このことを肝に銘じておけば、間違った先入観を植え付けられることは減っていくのではないかと、私は期待しています。(p115~117)

なるほどですねえ。 

ここで言う「受け入れ箱」「比較箱」については、夫婦のあり方に関連して述べた部分も参考になる。

結婚生活は相手の考えを自分に取り込む最大のチャンスなのです。それができれば、あなたの人生は単純計算で2倍広がります。

このようなときこそ、第1章でお話しした脳の中の「受け入れ箱」を使うべきなのです。とことん相手の話を聞いて、自分と意見が違うとか、同じであるとかは関係ありません。相手が何を主張しているのか、そのことのみを理解しようと努めるのです。

そして、時間が経ったときに、「比較箱」に入れてみる。そこで理解できるようになっているかもしれませんし、万が一、否定的な考えになっていたとしても、それはそれでいいのです。他人の正しさを受け入れたり、あるいは考えたりすることができれば、自分の人生も広がっていくので、プラスになると考えて間違いありません。

日本のカップルや夫婦は、「相手のすべてを理解して、考え方も一緒でなければならない」という先入観を強く持っていますが、こうした考えに固執してしまうと、無理をして相手に合わせなければならないので、自分が緊張して気疲れしてしまいます。これでは健全な人間関係を築くことはできません。(p138)

たしかに。

「相手のすべてを理解して、考え方も一緒でなければならない」という先入観を持っている人が一定数いますね。私の相方もその一人です。その部分で時々ぶつかっていますので、この「受け入れ箱」「比較箱」の話は極めて参考になります。

 

 本書の一部には同意できないところもあります。著者も人間ですから、すべてを鵜呑みにするわけにはいきませんね。一度「受け入れ箱」に入れてじっくり考えてみようかな。

 

 

 ↓ Facebook 「花の写真館」より。
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読書メモ『日本人へ』

塩野七生(しおの ななみ)さんの著書『日本人へ~危機からの脱出篇』(文春新書 2013年)を読み終えた。

切れ味の鋭い文章ですなあ。元気のいいおばちゃんに、ズバズバ指摘されている感じでした。イヤハヤ。

 

いくつか興味深い文章があったのですが、今回はその一つを取り上げてみたい。

「なぜ人々は、マスコミから離れるのか」という見出しの章です。日本もイタリアも似たような現象が見られるようで・・・。

 

日本でも、新聞や雑誌の経営が困難になっているという。ここイタリアでも同じで、新聞社は文学全集や古い映画のDVDを出したりしているが読者は離れる一方。雑誌も今や政治家からタレントまで網羅したゴシップで埋まっているが、こちらも講読者は減る一方である。テレビも番組は低俗化するばかりだが、それでも経営は苦しいという。(p40) 

 その理由を、塩野七生さんは次のように分析している。

テーマの取り上げかたが、卑しく下品に変わったからである。政治ニュースならば、政局については騒々しいくらいに論ずるのに、政治を真正面から取り上げた記事はほとんど見かけなくなった。大新聞の政治部の記者や政治評論家は、何をみているのかと思ってしまう。コメンテーターとしてテレビに始終顔を出す政治評論家も学者も、重要なことはさし措いて瑣末なことしか論じないという点では変わりない。低俗化したほうが、講読者は増え視聴率は上がると考えているのであろうか。(p41)

 たしかに。

新聞は読まないのでどんな記事が書かれているのか分からないが、テレビは明らかに低俗化していると思う。塩野さんがテレビで観るのは、「朝晩の時事ニュースとドキュメンタリーぐらい」というのも理解できる。私は、韓流ドラマ(時代劇)を付け加えたいが。

(メモ:「瑣末」は、「さまつ」というのか。知らなかった。)

 

ところがこの考え方こそが、人々を離してしまったのだ。なぜなら人間は、自分個人にならば卑しく下品なところはあると知っていても、そのようなことばかりを浴びせかけられる状態がつづくと、遅かれ早かれアレルギーを起こすものなのである。それもとくに、自分一人ではいかに努力してもできないこと、つまり国の政治、を託した人が対象であった場合はなおのことだ。(中略)

 

問題は、「何を取り上げるのか」よりも、「どう取りあげるか」なのである。(中略)

 

日本をどうするつもりか、という、根元的なことを知りたいと願っている読者や視聴者を離してしまうことになる。つまり、足許の砂が崩れつつあるのに自己満足にふけるのを止めないことこそが、人々のマスコミ離れの真因ではないかと思うのだ。(p41~44)

本当にその通り。今まで何かモヤモヤしていたものが、この言葉でスッキリした。もっと根元的なことを知りたいのだ。誰も心の中では、政治家がみんな聖人君子だとは思っていない。ある程度のことには目をつむってでも、もっと本質的なことを追求してほしいのだ。

 

 

 

 

 ↓Facebook 「花の写真館」さんより。
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読書メモ『役たたず、』

『役たたず、』(石田  千  光文社新書  2013年)を読み終えた。新書にしては珍しく、日常のなかで綴ったエッセイである。

石田千という名前からは、男性か女性か分からない。本の裏にある著者の紹介文にも書いてない。今の時代だから、男性か女性かはどちらでもいいや、と思いながら読み始めた。本書の紹介文には、

だいじなことは、役にたたない。そして一見、役にたっているようにみえるものも、ひと皮むけば役たたず。役にたつことばかりしていると、暮らしも人も、痩せていく―――。(中略)エッセイストで、ここ最近は小説家としても頭角を現している石田千が、日常のなかで綴った「役たたず」の視点からの風景。(中略) 相撲好き、競馬好き、ビール好きの「町内一のへそまげちゃん」が、だいじにしたいもの。へなちょこまじめな日常記。

とある。なんか男性っぽいナア。やはり気になる。(笑)

 

「レバニラ炒めとタラ入りスープ」の章を読むと

注文を決められないのは、好き嫌いがないからということもある。だいたい、いつでもなんでも食べたい。喫茶店も、いろんなコーヒーがあると迷う。違いのわからぬ女は、うえから順番に頼むことにしている。(p66)

おや?女性なのか?

 

次の章では、

花のほうは初夏なのに、吐く息はしろい。近くに住む友だちに声をかけるにも、雨がひどい。上野につくと、靴のなかが、じゃぶじゃぶになった。

四十路女は、紙袋をぶらさげ改札にむかう。

そして、スイカの残金が足りず、通せんぼをくらった。(p85)

どうやら、石田 千さんは、女性のようだ。

 

というわけで、あまり役にたたないまま、本記事を終わらせていただきます。失礼しました。

 

 

役たたず、 (光文社新書)

役たたず、 (光文社新書)

 

 

 ↓ Facebook 「ZEKKEI  Japan」さんより。
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読書メモ『46年目の光』

『46年目の光』(ロバート・カーソン 池村千秋訳 NTT出版 2009年)を読了。

主人公(マイク・メイ)は、3歳で視力を失い、46歳のとき手術で視力を取り戻した。それだけだと、ハッピーエンドの話と思うのだが、実際は違った。視力を回復しても、それを処理する脳の働きが失われていたのだ。まさしく想像を越えた生き方が詳しく書かれている。著者は、主人公、家族及び医療関係者などに2年間にわたってインタビューを重ねたという。約450ページに及ぶ力作だ。主人公の心理描写などは、まるで本人が書いたようだ。非常に綿密に取材され、こと細かく書かれている。

 

主人公が視力を回復しても、正常な顔の写真と目と口が上下逆さまの写真の区別が、すぐにつかなかった。

(参考:↓「サッチャー錯視画像」(この区別がつかなかった、ということらしい。))


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ものの動きと色はほぼ完璧に見て取れるのに、人間の顔はなにも意味せず、(対象物が動いていないかぎり)奥行を理解できず、物体の識別もすんなりとはできなかった。(p363)

 

 

 

ある親しい友人との対話が印象深い。

「それにしてもおもしろいな」と、バシンは言った。「ファイン博士の話だと、人間がものを見るという行為の多くの部分は予備知識と予想を土台にしている。そういうわけだろ?」

「そうだと思う」

「同じことは人間の感情についても言えると思わないか?ある人に対して特定の先入観をもっているせいで、その人について見えることと見えないことがあるんじゃないだろうか?おれが言いたいのは、人間の頭の中や心の内面のことだよ。このスプーンや公園のベンチが美しいものだという先入観をもっていないせいで、その美しさを見落としてはいまいか?」

「うん」と、メイは言った。「ものを見るためには脳が知識を当てはめなければいけないと、ファイン博士は強調した。でも、先入観を当てはめないことにもいいところがあると思う」

「あらゆる可能性を閉ざさずにおける・・・」

「そう、すべての可能性を閉ざさないでいられる。あらゆる解釈を排除しないでおける。ある意味でおれの視覚には制約がない。おれの見るものの大半はなんにでもなりうる。ある物体なり、ある人間なりがどんなものにでもなりうるというのは、なかなか魅力的だ。ほぼあらゆるものを美しいとして評価できる可能性があるわけだからね」

二人は夜更けまで語り合った。奥行きがわかるのは脳による解釈にすぎない。言い換えれば不確かな部分を埋めるために脳が本能的に深い溝の上を跳躍した結果なのだというファインの説明に、二人は好奇心をそそられた。(p390~391)

 ふだんの生活の中で、脳は視覚から得られる膨大な情報をテキパキと処理して、私たちが生活しやすいように支援してくれている。もしこれを意識的に行うとしたら、この本の主人公のように、たちまち疲れきってしまうことだろう。そういう意味で、脳の役割は大事だ。ただ、脳が土台にしている「予備知識」が変化した場合、見る光景も異なってくる可能性が考えられる。そうなると、どんな光景が見えるのか興味が湧いてくる。

 

 

 

46年目の光―視力を取り戻した男の奇跡の人生

46年目の光―視力を取り戻した男の奇跡の人生

 

 
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