ガラガラポン日記

複雑になってしまった問題を、一度ゼロにして、考え直してみる。

読書メモ『敗北を抱きしめて(下)』

『敗北を抱きしめて〜第二次大戦後の日本人』の翻訳本は、上下2冊だが、上巻の方は、敗戦直後の日本の庶民の記述が大部分なので、下巻を中心に書いてみた。(なお、増補版も出ているようだ。)

 

下巻最初の章のタイトルは、「くさびを打ち込む」。

戦争の後半には、OSSなどの諜報機関と同様、マッカーサー司令部も、天皇が日本の降伏だけでなく戦後の変革の鍵も握っていると考えていた。フェラーズと部下たちの表現によれば、「軍国主義者のギャングたち」は日本人をだましただけでなく、聖なる君主も裏切ったのだと日本人を説得し、それによって軍部と天皇(およびその臣民)とのあいだに「くさびを打ち込む drive a wedge」ことが重要なのであった。日本帝国は天皇の名において、天皇の権威の下に、ほとんど20年にわたる天皇の積極的協力をえて諸政策を推し進めてきた。ところが要するに西側の宣伝担当者達は、そうした日本帝国のさまざまな国策から天皇を切り離し、今や天皇の新しいイメージを創り出す作業に加担しようとしていたのである。(p9〜10)(太字は管理者による)

この「くさびを打ち込む」作戦は、見事に成功したと言える。全く見事としか言いようがない。

 

昭和天皇が、「退位」するチャンスは、三回あったとされる。

1945年10月下旬、近衛公爵が天皇退位の可能性を公然と口にし、そのあと内閣の圧力によって訂正したために動揺が起きた。近衛は、日米開戦を回避できなかったこと、また戦争の早期終結を実現できなかったことについて、天皇は個人的に重大な責任を負っていると考えており、それをいつになく率直に語ったのであった。・・・(中略)・・・その数日後、東久邇は甥に退位の三つの「適切な時期」について考えるよう個人的に促したと、直接日本のメディアに語った。第一の時期は、すでになんらの行動もとられることなく過ぎてしまっていたが、それは「降伏文書に署名した時」である。しかし、あとの二つの「適切な時期」は、これからやって来るものであった。東久邇の考えでは、憲法が修正された時か、講和条約が締結された時に、裕仁は退位を考えるべきだった。メディアは、皇太子が成人するまで、天皇の弟である高松宮摂政になると推測していた。(p71)(太字は管理者による)

 タラレバであるが、昭和天皇がこの三つの「適切な時期」のいずれかに「退位」していたら、その後の日本とアジア諸国との関係はどのようになっていたのだろう?

 

この本の著者「ジョン・ダワー」を知ったのは、『転換期の日本へ〜「パックス・アメリカーナ」か「パックス・アジア」か』(ジョン・ダワー、ガバン・マコーマック共著 NHK出版 2014年)を読んだからである。日本は以前として、アメリカの属国として生きている事実を知らされた。あまり認めたくないことだが、日本の上層部は、アメリカの方を向いてばかりいるようだ。

 

無謀にも、何か他の道はないのだろうか?と思い、まずジョン・ダワー氏の著作を手にとって読んでみた。

 

 Facebook 「ZEKKEI  Japan」さんの写真より。↓

「雨の日は、苔も大喜び!?  苔から顔を出しているお地蔵さまにも癒されますね。」
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敗北を抱きしめて〈上〉―第二次大戦後の日本人

敗北を抱きしめて〈上〉―第二次大戦後の日本人

 
敗北を抱きしめて〈下〉― 第二次大戦後の日本人

敗北を抱きしめて〈下〉― 第二次大戦後の日本人

 

 

 

転換期の日本へ 「パックス・アメリカーナ」か「パックス・アジア」か (NHK出版新書)

転換期の日本へ 「パックス・アメリカーナ」か「パックス・アジア」か (NHK出版新書)

 

 

 

 

読書メモ『やわらかな生命』

図書館本『やわらかな生命』(福岡伸一   文藝春秋   2013年)再読了。(文庫本も出ているようだ。)

一度読んだ本だった。読んだことを忘れて、また借りてきてしまった。いかに記憶力が低下しているかが分かる。トホホ(;´д`)

 

『銃・病原菌・鉄』の著者ジャレド・ダイアモンドさんに会った時のことを書かれた章があった。

世界がヨーロッパ化された理由は何か。・・・(中略)・・・彼らの勝利の理由は何だったのか。白人たちが肉体的、精神的にすぐれていたから?遺伝子的に優位だったから?・・・(中略)・・・しかしそれは違うとダイアモンドは断言する。環境条件の差がすべてを決めたのだ。白人がたどり着いたヨーロッパにはたまたま栽培のしやすい穀物の元になる植物が自生していた。・・・(中略)・・・家畜化に適した動物がいたことも有利だった。馬、牛、羊、豚。動物たちとの接触は思わぬ災厄をもたらした。病原体。しかしこれは同時にその地域の人間に新しい力を付加した。免疫である。これも異文化間の衝突に有利に働いた。

 

端的にいえば、ダイアモンドのスタンスは、発展史観ではなく、生態史観を採るということ。世界のあり方は段階的に進化するわけでもなく、因果律に支配されているわけでもない。この世界に予め決定されていることは何一つない。一方、環境さえ決まれば同じ結果が発生するということでもない。すべては偶然に満ちた動的な平衡である。それが福岡ハカセの動的平衡論なので、その点でもダイアモンドさんとの話は弾んだ。(p231〜233)(太字は管理者による)

この「因果律」という考えから抜け出すのは容易ではない。キリスト教であれば「予定説」という考えがある。初期仏教であれば「縁起」という考えがある。さまざまな考えがあるのだが、個人的には、この世界は、偶然的な関係性の上に成り立っている仮和合の世界で あり、「因果」も「予めの決定」も存在しないものと思っている。そういう意味で福岡伸一氏(福岡ハカセ)の「動的平衡」(「生命とは動的平衡にある流れである」 )という、(個人的な理解でいうと)動きがあってしかも微妙なバランスの上に成り立っている・・・という捉え方は、実に的確に、この世界の事象を表現されているなあ、と思う。

 

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やわらかな生命

やわらかな生命

 

 

 

 

読書メモ『しない生活』

図書館本『しない生活〜煩悩を静める108のお稽古』(小池龍之介 幻冬舎新書 2014年)読了。

ほんのちょっとした切り替えで、普段の生き方が、す〜っと楽になる、そんなことが一杯書かれている。

 

この本の裏表紙に書かれてある文章が、この本の内容を端的に表現している。

メールの返信が遅いだけで「嫌われているのでは」と不安になる。友達が誉められただけで「自分が低く評価されたのでは」と不愉快になる。人はこのように目の前の現実に勝手に「妄想」をつけくわえ、自分で自分を苦しめるもの。この妄想こそが、仏道の説く「煩悩」です。煩悩に苛まれるとき役に立つのは、立ち止まって自分の内面を丁寧に見つめること。辛さから逃れようとして何か「する」のではなく、ただ内省により心を静める「しない」生活を、ブッだの言葉をひもときながらお稽古しましょう。

 

 「煩悩」といえば難しそうに聞こえるが、日常生活の「妄想」ととらえれば、成る程と思ってしまう。

 

この本の中で、「そうですねえ」という言葉に関して書かれた文章があった。小見出しは、「自分の考えを返す前に「そうですねえ」とひと呼吸おく」(p94)である。

 

あるプロ野球監督のインタビューを聞いていると、回答の最初に必ずと言っていいほど「そうですねえ」と言っている方がいた。この人の口癖なのかもしれないが。同じプロ野球選手のヒーローインタビューでもこの「そうですねえ」という言葉が多用される。(私の見ているのは、ほとんど日本ハムの選手だけど・・・)外国選手が「ソウデスネエ」と最初に言葉を発すると、スタンドからは笑いが聞こえる。(これは、日本人選手の口まねであることが分かっているからだ。)

 2017 04 01 勝利監督インタビュー~ジャイアンツ高橋由伸監督~阿部逆転サヨナラ3ラン - YouTube 

(↓3分20秒頃から。)

2017年5月10日 北海道日本ハム・加藤投手・レアード選手ヒーローインタビュー - YouTube

 

「そうですねえ」で検索すると、面白いものがあった。↓

応答詞「そうですね」の機能について » NO LANGUAGE, NO LIFE.

大学の研究論文にも登場していた。ビックリ。

 

個人的には、「そうですねえ」という言葉を有効に使おうと思う。先日、病院に行った時、医師から「新しい薬はどうでしたか?」と聞かれ、予想していなかった質問だったので、言葉が直ぐに出てこなかった。考えてみれば、前回、受診したときに新しい薬を処方してもらったので、医師が質問してくるのは当然だった。それを予想できなかった自分が情けない。言い訳すると、別のことを医師に申し出ようとして、そればかりか考えていたので、新しい薬に対する回答を用意していなかったのだ。これからは、予想外の質問がきたときは、まず「そうですねえ」とつぶやいておいて、その間に言葉を探すことにしよう。これも「そうですねえ」の使い方の一つかな?

 

 

Green Spring

 

 

 

 

読書メモ『日本人のための経済原論』

図書館本『日本人のための経済原論』(小室直樹 東洋経済新聞社 2015年)を読了。

・・・難しかった。

この本は、「資本主義原論」と「経済原論」の二章からなっている。近代資本主義を理解するためには、キリスト教を理解しなければならない、というのが印象的であった。

経済原論は、飛ばし読み。

 

最も印象的だったのが、キリスト教の「予定説」に関する部分。

キリスト教の神髄は予定説である。予定説(predestination)は、資本主義の精神の中枢をなし、資本主義理解の急所である。(p118)

 ここから30数ページに渡って「予定説」の説明が続く。

人間のために神があるのではなく、神のために人間が存在する。(M・ヴェーバー『プロティスタンティズムの倫理と資本主義の精神』大塚久雄岩波書店 p152)(p118)

予定説の前提は、神はすべての被造物に主権を有する(同上 p146)(p119)

キリスト教における救済(salvation)とは永遠の生命を与えられることである。(p120)

神は全く自由に、恣意に恩恵を与える。または与えない。そのように勝手気儘に意思決定(決断)する。(p123)

神は、ある人々(選ばれた少数者)だけを救い(永遠の生命を与え)、他の人々(選ばれざる多数者)は救わない(永遠の死滅を約束する)。これを「神の二重の決断」と言う。(p130) 

キリスト教の論理は予定説であるから、因果律ではない。因果律の反対の目的論(teleology)である。目的論では、設定された目的へ向けて結果が収束してゆく(例:神の意志〔目的〕は、どんな紆余曲折があっても実現される〔結果〕)と考えるのであるから、この点において「原因から結果が生ずる」と考える因果律とは、正に論理の向き(ヴェクトルの方向)が正反対である。仏教の論理は因果律キリスト教の論理は予定説。論理のヴェクトルの向きが正反対なのである。(p134〜135)

 

キリスト教が本格的宗教活動を始めたのは、近代に入ってからである。その契機となったのが・・・プロテスタントティズムの勃興と彼らの手による聖書の近代語訳である。・・・近代初頭、資本主義が胎動を始めた頃、ヨーロッパ世俗界においてキリスト教の本格的宗教活動が定着したことこそ刮目(注目)するべきである。(p155)

 

 キリスト教、なかでもプロテスタントティズムは、近代資本主義に次のような影響を及ぼしたと言う。 

 その結果の一つが、「タテの絶対所有権」が「ヨコの絶対所有権」 (人間たる所有者の所有権もまた絶対である)をも生んだことである。ここから資本主義が発生し発展してゆくことになる。

もう一つの結果は、主権概念の発生である。主権者は、宇宙における神の如く、領域では何事もなし得るようになった。主権から近代デモクラシー国家が生まれた。(p156)

(絶対所有権と主権、この結論部分は、正直よく分からない。)

 

参考:「キリスト教」「プロテスタント

 

 近代資本主義というのは、キリスト教を主な基礎にして作られたルールに則っているらしい。そのルールに則ってゲームをする場合、まずキリスト教を理解しなければならないのだろう。理解できなければ、本来の近代資本主義も近代デモクラシーも成立しない、ということになるのか。例えば、「日本経済」。小室直樹氏によれば、

 日本経済は、資本主義みたいであるとされているが、実は、資本主義ではない。・・・では、日本経済の正体は何か。封建制と資本主義と社会主義との混合経済である。(p238〜239)

 

しかし、日本の場合、多くの人々は仏教因果律に支配されているのに、キリスト教の予定説は理解できるだろうか。小室直樹氏も、「日本人には予定説が理解できない、絶望的に困難」(趣旨)と述べている。(p124) そうすると、キリスト教に基づく欧米型の「近代資本主義」が、日本に根付くことは難しいことになる。

 

しかし、このまま欧米型の「近代資本主義」の時代が続くのだろうか? いや、過去の歴史を見ると、中国やインドが世界をリードしていた時代があった。イスラム世界も見逃せない。東南アジア、アフリカ諸国の可能性も注目だ。

 先日、NHK「欲望の資本主義」を見た。今、近代資本主義は、先行き不透明になっているようだ。近代の歴史を踏まえた上で、宗教も含めて根本からの再検討が必要な時期に来ているのかもしれない。

 

参考: 「異色すぎるNHK経済番組」は、こう生まれた | 国内経済 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準

 



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欲望の資本主義

欲望の資本主義

 

 

 

善と悪の経済学

善と悪の経済学

 

 

 

読書メモ『呆けたカントに「理性」はあるか』

図書館本『呆けたカントに「理性」はあるか』(大井玄  新潮新書 2015年)読了。

著者の大井玄さんは、医師として終末期医療に携わっておられる。

 

 

本書の「はじめに」で、医師が、重度認知症の患者に「胃ろう」をつけるか?と聞く場面がある。私は、びっくりした。私の母は重度の認知症で、特別養護老人ホームにお世話になっている。そのような母に、重要な選択を「聞く」という発想自体がなかった。しかも、その患者は即座に「いやです」と答えたという。これまた予想外のことだった。意思表示がどこまで認められるか微妙な問題はあるのだろうが、考え込んでしまった。この部分が、本書の主要テーマである「理性と情動」「意識と無意識」「好き嫌いという直感的意思表示」へと繋がっていく。

 

 

認知症高齢者への対応について、日本とアメリカの対応の違いについて書かれている。アメリカの方が施設入所後の余命が短いらしい。

アメリカでは、自立できなくなったらその時が生存の終わり、という生存戦略意識つまり倫理感覚があります。それは、個人はそれぞれが独立した宇宙であって、その中心に自我があり、考え、判断し、行動するという人間観に基づくものです。

これに対し日本では、調和のとれた相互依存を通して生きるのが良いとする倫理感覚が代表的です。この倫理感覚は、自己と他者とは本質的につながった存在であるという人間観に基づきます。

いずれにせよ、二つの文化を生きた筆者には、日本の老人ホームで見かける介護の優しさには心打たれることが多いのです。(p29)

 たしかに、施設職員の「介護の優しさ」には頭が下がる。特に、食事の介助、排泄の介助、入浴の介助などは本当に手間がかかるし大変な作業だが、やさしく声かけしながら介助している。

ただ個人的には、重度の認知症であれば、アメリカ式の対応もありかなと思う。自分が認知症になれば、アメリカ式の対応を希望したい。人は長生きすれば、それだけでいいと言うわけでもない。

 

人間というものは、「理性」だけでは理解できないようだ。意識と無意識の世界に生きていることを、ありのままに認めることが求められているようだ。 

 


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(↑ FB 花の写真館より)

 

呆けたカントに「理性」はあるか (新潮新書)

呆けたカントに「理性」はあるか (新潮新書)

 

 

 

読書メモ『哲学な日々』

野矢茂樹さんが書いた『哲学な日々』(講談社 2015年)という本を読了。

 

野矢茂樹さんという名前、どこかで見たなあ、と思っていたら、本書に書いてあった。『論理トレーニング』の著者だった。なるほどですねえ。

 

そこでまず「§32  論理的ということ」という文章から引用。

「論理的でない」と自認する人は少なくない。あれ、あなたも? (p76)

 ドキッ! 私のことか?私はずーっと自分のことを「論理的でない」と自認していた。

 

論理的とは、狭い意味では推論が正確にできることだ。しかし、私としては、より広い意味で論理的ということを考えたい。言葉を断片的にではなく、関係づけて捉えること。この言葉とこの言葉はどういう関係にあるのか。それが的確に理解でき、きちんと関係づけられた言葉を使えること。(p76)

なるほどですねえ🎵

 

だから、逆に非論理的というのは、答えになってない答えを返したり、すれ違いに気づかないで相手に反対したり、ぜんぜん説明になっていない説明を与えたりすることだ。

さらに言えば、問いを無視する、賛成も反対もしないでたんにスルーする、説明不足なんか気にしない、そこまでいくと、これは非―論理的というより無―論理的である。つなげ方をまちがえているのではなくて、そもそもつなげようとしない。ただ断片的に言葉が並べられるだけ。(p77)

「答えになっていない答えを返す」「すれ違いに気づかない」・・・これは時々あるんですよね。残念ながら。やはり私は、「論理的でない」にやや近いのかもしれない。

 

 

次に「§41   ほめるのではなく」から。

「ほめて育てる」と、よく言われる。確かに、ほめられるとやる気が出る。だから、子どもを伸ばそうと思ったなら、ほめることはとても効果的である。しかし、「ほめて育てる」という方針は根本的にまちがっている。(p94)

え〜っ!まちがっている?  なぜ?

 

ほめられて育った子が、ほめられるためにがんばるようになる。そしてそこから抜け出せない。これが最悪のシナリオである。(中略)  何かを為すときには、そのこと自体がもたらす達成感こそが、その行動の原動力になるのである。この、自分自身の内側から産み出される駆動力を、「ほめられるためにがんばる」という行動原理は奪ってしまう。

ほめる者はほめられる者よりも優位に立つ。だから、ほめられたいと思う気持ちは、自分よりも優位の者を求めることにつながる。子どもは大人たちを出し抜き、追い越していかなければいけないのに、ほめられようとして上目づかいになり、ほめてくれる人に自ら進んで隷属しようとする。ほめて育てようとする人たちは、おそらくは無自覚のうちに、そうして子どもを支配しようとしている。(p94〜95)

 

たしかにそういう可能性は考えられる。視点を変えるとこういう見方もできるのか。「最悪のシナリオ」ということで、そこまでいかない場合も当然あるだろうが・・・。では、どうすれば良いのか?

 

ほめるのではなく、共に喜ぶこと。何かがうまくできたなら、一緒に喜んで、子どもが感じている喜びを増幅する。そうして、その子が自分の内側から感じる喜びを引き出してあげるのだ。

何かを為したことがもたらす喜びが、ほめることによって、ほめられた喜びにすり替えられてしまう。もっと子どもの内側から湧いてくるものをだいじにしなくてはいけない。(p95) 

子どもの視線で共に喜ぶことということかなあ。ほめることと似てるけど違うのだなあ。ちょっと難しい。でも大事なことだ。

 




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哲学な日々 考えさせない時代に抗して

哲学な日々 考えさせない時代に抗して

 

 

 

読書メモ『補欠廃止論』

図書館で、「セルジオ越後」の名前に惹かれて『補欠廃止論』(セルジオ越後   ポプラ新書    2016年)という本を借りてきた。

僕には、何十年も主張し続けてきたことがある。それは日本サッカー、いや団体スポーツを強くするためには、部活動などの子どもの教育現場から「補欠制度」を撤廃しなくてはならない、ということだ。(p14)

 

部活という教育の現場に、補欠が存在するのはとんでもないことだ。学校で「君はテストの点数が悪いから補欠です。テストの点数がよくならない限りは、授業は受けられませんが、毎日登校して仲間を応援してください」と言われたら、どう思うだろうか?本人や親は烈火のごとく怒るだろう。

しかし、同じ教育目的の部活動には、補欠制度が存在する。これはおかしいと思わないのだろうか?

そういう意味で僕は、補欠制度は差別に値すると考える。(p16) 

 

我が家の子供も中学生時代、サッカー部に所属していたがずーっと「補欠」だった。テレビで甲子園の高校野球を見ると、スタンドにユニホームを着た多くの野球部員がいる。下級生は別として上級生はベンチに入れないので「補欠」なんだろう。(セルジオ越後さんは、「ベンチにいて試合に出られる可能性のある人は「控え」で、スタンドにいて試合に出られない人を「補欠」」(p17図)と分けて説明している。)

 

この本のタイトルは、「補欠廃止論」という事で、日本では常識と思われていることを鋭く指摘している。そういう意味でインパクトがあるが、より求めているのは日本のスポーツ全体のあり方だと思う。

 

この記事を書いているときも、高校の登山部の安全講習で遭難があり、多くの高校生が亡くなったというニュースが流れていた。本書では、学校の部活動のあり方についても現状の改善を求めている。教員の負担も大きいようだ。学校の枠を外した地域のクラブの利用など多角的な方法を勧めている。

 

私見だが、人々は、「学校」に多くを望みすぎている、あるいは依存しすぎているのではないだろうか。明治以降、国家主義の担い手を育成したのは、「教育勅語」に代表される学校教育だと思っている。様々な角度から「学校」というものを見直していくことが必要だと思う。

 

本書の最後でセルジオ越後さんは、こう書いている。

僕が理想とする未来ーーー。それは、子供たちの世界から補欠制度を廃止することであり、体を動かすことの楽しさを知り、週末は家族や友人たちとスポーツ観戦するようになることだ。スポーツが、決して体育や習い事の延長としてのものではなく、生活の一部になっているのが理想だ。(p151〜152)

 

「生活の一部」というのがいいなあ。 

 

 

frosty_morning

 

 

(096)補欠廃止論 (ポプラ新書)

(096)補欠廃止論 (ポプラ新書)