ガラガラポン日記

複雑になってしまった問題を、一度ゼロにして、考え直してみる。

読書メモ『46年目の光』

『46年目の光』(ロバート・カーソン 池村千秋訳 NTT出版 2009年)を読了。

主人公(マイク・メイ)は、3歳で視力を失い、46歳のとき手術で視力を取り戻した。それだけだと、ハッピーエンドの話と思うのだが、実際は違った。視力を回復しても、それを処理する脳の働きが失われていたのだ。まさしく想像を越えた生き方が詳しく書かれている。著者は、主人公、家族及び医療関係者などに2年間にわたってインタビューを重ねたという。約450ページに及ぶ力作だ。主人公の心理描写などは、まるで本人が書いたようだ。非常に綿密に取材され、こと細かく書かれている。

 

主人公が視力を回復しても、正常な顔の写真と目と口が上下逆さまの写真の区別が、すぐにつかなかった。

(参考:↓「サッチャー錯視画像」(この区別がつかなかった、ということらしい。))


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ものの動きと色はほぼ完璧に見て取れるのに、人間の顔はなにも意味せず、(対象物が動いていないかぎり)奥行を理解できず、物体の識別もすんなりとはできなかった。(p363)

 

 

 

ある親しい友人との対話が印象深い。

「それにしてもおもしろいな」と、バシンは言った。「ファイン博士の話だと、人間がものを見るという行為の多くの部分は予備知識と予想を土台にしている。そういうわけだろ?」

「そうだと思う」

「同じことは人間の感情についても言えると思わないか?ある人に対して特定の先入観をもっているせいで、その人について見えることと見えないことがあるんじゃないだろうか?おれが言いたいのは、人間の頭の中や心の内面のことだよ。このスプーンや公園のベンチが美しいものだという先入観をもっていないせいで、その美しさを見落としてはいまいか?」

「うん」と、メイは言った。「ものを見るためには脳が知識を当てはめなければいけないと、ファイン博士は強調した。でも、先入観を当てはめないことにもいいところがあると思う」

「あらゆる可能性を閉ざさずにおける・・・」

「そう、すべての可能性を閉ざさないでいられる。あらゆる解釈を排除しないでおける。ある意味でおれの視覚には制約がない。おれの見るものの大半はなんにでもなりうる。ある物体なり、ある人間なりがどんなものにでもなりうるというのは、なかなか魅力的だ。ほぼあらゆるものを美しいとして評価できる可能性があるわけだからね」

二人は夜更けまで語り合った。奥行きがわかるのは脳による解釈にすぎない。言い換えれば不確かな部分を埋めるために脳が本能的に深い溝の上を跳躍した結果なのだというファインの説明に、二人は好奇心をそそられた。(p390~391)

 ふだんの生活の中で、脳は視覚から得られる膨大な情報をテキパキと処理して、私たちが生活しやすいように支援してくれている。もしこれを意識的に行うとしたら、この本の主人公のように、たちまち疲れきってしまうことだろう。そういう意味で、脳の役割は大事だ。ただ、脳が土台にしている「予備知識」が変化した場合、見る光景も異なってくる可能性が考えられる。そうなると、どんな光景が見えるのか興味が湧いてくる。

 

 

 

46年目の光―視力を取り戻した男の奇跡の人生

46年目の光―視力を取り戻した男の奇跡の人生

 

 
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読書メモ『偶然とは何か』

『偶然とは何か』(岩波新書  2010年)。著者は、竹内啓さん。氏の専攻は、統計学、経済学、科学技術論。

 

最初、タイトルをみたときは、哲学書かな?と思ったが、ちょっと違った。統計的な説明や、確率論、リスクマネジメントなどの記述もある。少し難しい。

 

難しい文章が多い中、ホッとする話も書かれている。「予言ダコ」のパウル君だ。

「予言ダコ」のパウル君が、サッカーのワールドカップの八試合の勝敗の結果を予測して当てたことが大きな話題となった。・・・八試合全部を当てる確率は・・・約0.4%である。・・・少なくとも決勝トーナメントの五試合については、事前に予測して当てたことが伝えられている。そうするとその確率は・・・0.031………となって、まだ十分小さいと考えることができるから、やはり「不思議」とはいえるかもしれない。しかし、その程度の「偶然」は広い世の中でいくらでも起こることだから、「不思議な偶然が起こった」という程度にして済ますべきであろう。(p121~122)

 「不思議な偶然」というのは、「言い得て妙」だ。単なる「偶然」というと「予言ダコ」を信じている人たちは憤慨するだろう。「不思議な偶然」という言葉であれば、渋々頷きそうな気がする。

何かを信じたい、という人々にとっては、「不思議な偶然」もすべて「必然」に見えてしまうらしい。一度、この術中に嵌まると、抜け出すのは容易ではない。

 

「運」「不運」を分け合う、ということについて。

偶然というものは、本来不合理あるいは「不条理」なものである。したがって、自分にとって好都合な偶然は「幸運」であり、不都合な偶然は「不運」というよりほかはないのである。(中略)

 

「運」や「不運」は避けられないとしても、「幸運」からできるだけ多くの喜びを見いだし、「不運」のもたらす「惨めさ」や「悲しみ」をなるべく少なくすること、あるいは場合によっては「禍いを転じて福となす」ようにすることは、それぞれの人の努力によるところである。(中略)

 

もう一つ重要なことは、「運」や「不運」は他人と分かち合うことができるということである。(中略) つまり「不運」を分け合うことによって、人々は「不運」をもたらす偶然は防ぐことができないとしても、そこから生じる「不幸」は小さくすることができるのである。(中略)

 

「運」や「不運」は、各人にとっては、結局は自ら引き受けなければならないものであるとしても、社会の中で、自分の「幸運」は当然自分の権利であり、他人の「不運」はその人の「自己責任」であって知ったことではないとするのは、道義的に正当とはいえないであろう。「運」「不運」は、他人と分かち合うことによって「偶然の専制」を和らげるべきではなかろうか。(p163~168)

 この辺りは、何となくわかるような気がする。戦後、新宗教が多くの人々に支持されたことや、大災害のあと、多くの人々が援助の手をさしのべたことを見ても理解できる。

 

なお、この本では、原子力発電所メルトダウンの危険性などについても書かれており、多重安全システムの必要性などに言及されている。この本が出版されたのが2010年9月であり、福島原発メルトダウンの半年前である。

 

Facebook 「ZEKKEI  Japan」より。

 

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偶然とは何か――その積極的意味 (岩波新書)

偶然とは何か――その積極的意味 (岩波新書)

 

 

 

 

読書メモ『戦争にチャンスを与えよ』

以前から読みたいと思っていた。図書館でようやく借りることができた。

著者は、エドワード・ルトワック。本書著者の紹介記事には、「戦略家、歴史家、経済学者、国防アドバイザー・・・」などと書かれている。一筋縄ではいかない雰囲気がある。

 

この本は、第一、二章で論文「戦争にチャンス与えよ」について書かれており、その後は、この本の訳者が聞き手となって、日本を取り巻く外交・軍事的課題についてその解決策を聞き出している。

 

本のタイトルからイメージしていたものとは、少し違うなあ。

 

最も興味深かったのは、「北朝鮮論」です。

私は戦略家であり、政治家ではない。ましてや教師や牧師でもない。倫理道徳の価値観の教育は専門外だ。したがって、私が日本政府に対して言えるのは、「何もしないのが最悪の選択肢で、以下の選択肢のうちの一つを実行せよ」ということぐらいである。(p111)

 

第一の方策は、「北朝鮮に降服する」というものだ。

北朝鮮政府が真に何を望んでいるのかを聞き出し、経済制裁をすべて解除する。・・・

(中略)

次の方策は、「北朝鮮を攻撃する」というものだ。しかもこれは、先制攻撃でなければならない。・・・

(中略)

さらには「抑止」も一つの選択肢となろう。「抑止」としては、日本が1000キロの射程の弾道ミサイルを持ち・・・

(中略)

最後の選択肢としては、「防衛」がある。これは、ミサイル防衛によるものだが、どのシステムも完璧ではない。・・・ (p112~118)

「降服」(もしくは「宥和」)というのは意外でしたが、人的損害が無いという点では極めて現実的かもしれない。

 

この章で著者が最も警告していたことがある。それは、「何もしないこと」、「まあ大丈夫だろう」という態度だ。

人々は、平時には、脅威を深刻なものとして考えられないものだ。平時に平和に暮らしていれば、誰かの脅威に晒されていても、空は青いし、何かが起こっているようには思えない。友人との飲み会に遅れないことの方が重要で、脅威に対して何の備えもしない。

つまり、脅威に対して降服するわけでも、「先制攻撃を仕掛ける」と相手を脅すわけでもない。そのように何もしないことで、戦争は始まってしまうのである。

平時には、脅威が眼前にあっても、われわれは、「まあ大丈夫だろう」と考えてしまう。脅威が存在するのに、降服しようとは思わず、相手と真剣に交渉して敵が何を欲しているのかを知ろうともせず、攻撃を防ぐための方策を練ろうとも思わない。だからこそ、平和から戦争が生まれてしまうのである。(中略)

平和は戦争につながる。なぜなら平和は、脅威に対して不注意で緩んだ態度を人々にもたらし、脅威が増大しても、それを無視する方向に関心を向けさせるからだ。日本にとって、その典型が北朝鮮問題だ。(p109~110)(太字は管理者が。)

 

 これは、耳が痛い。

 

逆説的な表現が好みのようだ。「平和は戦争につながる」・・・そういうことは考えたこともなかった。

 

戦争にチャンスを与えよ (文春新書)

戦争にチャンスを与えよ (文春新書)

 

 

 

 ↓Facebook 「花の写真館」より。

 
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読書メモ『二酸化炭素温暖化説の崩壊』

二酸化炭素温暖化説の崩壊』の著者は「広瀬隆」さんです。この方は、原発反対だけかと思っていたが、そうではなかった。

 

地球温暖化」というのは、たびたび聞かれる言葉で、なじみが深い。温暖化の元凶は、てっきり「二酸化炭素(CO2)」だと思っていた。しかし、本書の最初の部分を読んだだけで、その考えが、ガラガラと音をたてて崩れていくのを感じる。イヤハヤ。

 

今の人類は、NHKを筆頭とするテレビ番組、テレビコマーシャルが示す通り、CO2を減らせば環境を守れるという幼稚園児レベルの知能しかない。ヒートアイランド原発放射能災害、発電所の温排水、砂漠化、野生生物危機、大気汚染、水質汚染酸性雨熱帯雨林の破壊、遺伝子組み換え食品、環境ホルモン食品添加物、農薬、ダイオキシン汚染、増え続けるゴミ、大地震の恐怖、戦争など、ありとあらゆる環境破壊と毒物生産を放任して、すべて無実のCO2にその罪をなすりつけ、人類が大規模な環境破壊に踏み出し始めた。(p30)

 厳しい口調ではあるが、ある意味当たっていると思う。

 

過去45万年間という長大な気温の変化を示した図が、本書に表示されていた。↓ (p85)



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これを見ると、気温は、温暖な時期と寒冷な時期を繰り返しており、今は、温暖な時期に突入していると思われ、気温の上昇は想定内ということになる。

現在論じているのは100年に1℃にもならない気温上昇だが、過去には、氷河期と温暖期がこのようにたびたび訪れて、その気温差は12℃もあるのだ。ジャワ原人北京原人の子孫も、この激変の時代を生き抜いてきたのだから、地球温暖化の旗を振りかざして「人類が滅亡する」と叫び回る人たちに、「これは自然現象なのだからあきらめなさい。ほかにもっと深刻な問題があるのですよ」と言いたげだ。(p86)

 

また、地球温暖化の原因とされる「CO2」については、

現在のところ、温室効果ガスの寄与率には、科学者によって諸説あるので、断定はできないが、水蒸気の寄与率は、最小の説でも60%であり、最大の説でも95%である。この「水蒸気を除いた場合」には、IPCC第四次報告書からの数字を読み取ると、CO2―――60%、メタン―――20%、フロン類―――14%、N2O(一酸化窒素)―――6%ぐらいと推定されている。つまり、現在の温暖化で議論されてきたのは、なぜか「水蒸気を除いた」この四つだけで、とりわけCO2だけに話が集中していること自体が、おかしいのである。(p122~123)

水蒸気、というのは意外でしたが、考えてみれば地球の表面の大部分は「海」なわけで、そこから発生する大量の水蒸気が影響するというのは、自然なことなのかもしれません。

 

 

二酸化炭素温暖化説の崩壊 (集英社新書)

二酸化炭素温暖化説の崩壊 (集英社新書)

 

 

正しく知る地球温暖化―誤った地球温暖化論に惑わされないために

正しく知る地球温暖化―誤った地球温暖化論に惑わされないために

 

 

 ↓Facebook「花の写真館」より。


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読書メモ『国家の品格』

国家の品格』(藤原正彦 新潮新書  2005年)。

たびたび他の本やブログで目にしたタイトルなので、どんなものかと思い図書館から借りてきた。一応読了したが、微妙な感じ。一部同意できるところもあるけど、どこかすれ違う部分もある。

この本を読む前に、『(日本人)』という本を読んでいたので、新渡戸稲造の『武士道』については、全面的に同意できない部分もあった。

 

とりあえず、同意できる部分について書いてみます。

 

本書の目次には、こう書かれていました。

第三章  自由、平等、民主主義を疑う 

自由と平等の概念は欧米が作り上げた「フィクション」である。民主主義の前提条件、「成熟した国民」は永遠に存在しない。欧米社会の前提を根底から問う。

そして、第三章の小見出しは次のようなものです。 

欧米人の「論理の出発点」 

「自由」という概念

欧米が作り上げた「フィクション」

大思想家ロックの無責任発言

カルヴァン主義と資本主義

ジェファーソンの偽善

民主主義は素晴らしいのか

国民が戦争を望む

民主国家がヒットラーを生んだ

日本も民主国家だった

マスコミが第一権力に

国策捜査

国民は永遠に成熟しない

「真のエリート」が必要

官僚は真のエリートにあらず

エリートを養成している欧米

「平等」もフィクション

「平等」ではなく「惻隠」を

論理だけではもたない

自由と平等は両立しない

少し引用が長くなってしまいました。この第三章については、同意できる部分が多いです。

 

本書の著者は、エーリッヒ・フロムの言葉を引用しています。

エーリッヒ・フロムは、『自由からの逃走』で、自由と民主主義の中からヒットラーが台頭した理由を心理学的にこう分析しています。「自由とは面倒なものである。始終あれこれ自分で考え、多くの選択肢の中から一つを選ぶという作業をしなければならないからである。これが嵩ずると次第に誰かに物事を決めてもらいたくなる。これが独裁者につながる。」(p78)

 自分で考える、というのは難しい。他の人が、異なる視点から見事な考えを述べているのを見ると、「こりゃ、(わたしは)ダメだ(^_^;)」と思ってしまう。そういうことが度重なると、もう自分で考えることを放棄したくなる。ある程度、自分で訓練しないと、「自分で考え、多くの選択肢の中から一つを選ぶ」という作業は困難と思う。原因を考えると、学校教育にも一因があるのかな?とも思ってしまう。

 

ついつい自分で考えることをせず、テレビやネットの意見に、飛びついてしまう。気をつけねば。

 

国家の品格 (新潮新書)

国家の品格 (新潮新書)

 

 

 

 

(日本人)

(日本人)

 

 

 

Facebook「花の写真館」より。

 

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読書メモ『「存在論的ひきこもり」論』

 図書館本『「存在論的ひきこもり」論〜わたしは「私」のためにひきこもる』(芹沢俊介雲母書房 2010年)読了。

「ひきこもり」と言えば、マイナスなイメージしか思いつかない。そんな私の固定観念を見事に打ち破ってくれた本だ。

「社会的ひきこもり」論から「存在論的ひきこもり」論への転換、これがこの本のテーマです。

次のように言ってもいいかもしれません。ここでのもくろみは、これまで引きこもっている人たちに向けられてきた、そしていまも向けられている否定的なまなざしを、肯定的なそれへ転換することである、と。(p8)

 

    はじめに否定的なまなざし、すなわち否定性から肯定的なまなざし、すなわち肯定性への転換と記しました。ここでいう肯定性とは受けとめです。受けとめの基本は、引きこもる本人・当事者を優先するということです。あえて言葉にすれば次のようになるでしょう。

 

「わたしは、あなたがいまそのようにあること、そのようにしか存在し得ないことを承認する。そして、たとえ引きこもることについての見解があなたと異なろうと、あなた自身の意欲にもとづかないかぎり、そのようなあなたの現実を修正するよう要求したり、強制したりすることはしない。あなたのいま・ここにある現実をまるごと尊重する」(p12〜13)

 

存在論的ひきこもり」の定義?

①引きこもることは、本人にとって切実な意味と動機をもった一連の行為、すなわちプロセスのある出来事であるということ。

 

②それゆえ、引きこもるという行為はそれがなくては本人が本人でなくなってしまう、そのような経験であるということ。

 

③したがって、引きこもるという経験は、本人の人生上の一時期を構成する不可避的、ないし必然的な一コマとして位置づけられること。

 

④それゆえ、引きこもることは捨てるべき不毛な否定的経験などではなく、逆に人生の次のステップへ進むための大切な基盤となりうるということ。(p48)

 

存在論的ひきこもり」という新しい概念を提起したいと考えたもう一つの理由があります。・・・初発における社会関係からの撤退、言い換えれば「社会的自己」の放棄は、「存在論的自己」がこれ以上傷つくのを防衛しようととった行動である、という視点を打ち出したかったからです。したがって、「社会的自己」の回復には、傷ついた「存在論的自己」の回復が先行しなければならない、これが「存在論的ひきこもり」論のメインテーマということになります。(p49)

 

 現実は様々である。本当にきびしい状況もある。攻撃的になることもある。それを止める家族の精神的な疲労は筆舌に尽くしがたいものがある。なんとか事なきを得たとしても、家族の心配は尽きない。それらの諸々を踏まえた上で、わたしはこの「存在論的ひきこもり」論に賛成したいと思う。今まで、否定的に見てきたことを反省したい。まだまだ「存在論的ひきこもり」論が身に付いていないが、ひきこもりの人たちの現実をありのままに受けとめようと思う。

 

(「ひきこもり」という言葉は、マイナスイメージを連想してしまうので、何か別の言葉で表現できればいいなあと思う。)

 

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「存在論的ひきこもり」論―わたしは「私」のために引きこもる

「存在論的ひきこもり」論―わたしは「私」のために引きこもる

 

 

パインアメ

先日、スーパーで、「パインアメ」を買った。懐かしいな、と思いつつ食べた。

 

パイン パインアメ 120g

パイン パインアメ 120g

 

 

フト思い付いて、ネットで「パインアメ」を検索してみた。

 

パインアメ」は、誕生してから、60有余年と会社のHPに書いてあった。

パインアメの秘密 - パイン株式会社

最初(昭和26年)は、穴がなかったそうです。後になって(昭和28年)、現在の穴あけの形が出来上がったそうです。

 

上記会社のHPには↓

パインアメを開発していた当時の日本は、戦後の傷跡が残っており、生のパイナップルはもちろん缶詰でさえも高級食品でした。そんな時"このパイン缶の美味しさをみんなが手軽に味わうことができたらどんなにすばらしいだろう"との思いからパインアメが誕生したのです。

戦前は、台湾でパイナップルが生産されていたようで、日本本土にも缶詰として運び込まれていたと想像される。

【参考】

パイナップルが紡いだ沖台関係 | 毎日新聞出版

 

パインアメの歌「キイロイアメノウタ」もある。


Nj feat. メロディー・チューバック「キイロイアメノウタ」

 

 普段、何気なく手にしている商品にも、意外な面が隠れているので驚いた。